仙台・松前道/せんだい・まつまえどう

松前道は奥羽地方の幹線道路で、古代の東山道や中世の奥の大道を継承した街道である。白河までは江戸時代、幕府道中奉行の管轄下に置かれていた。これより先の奥羽街道の延長路が仙台・松前道といわれた。

仙台・松前道のルート

(白河)-(須賀川)-(郡山)-(二本松)-(福島)-(桑折)-(白石)-(大河原)-(岩沼)-(仙台)-(古川)-(築館)-(一関)-(平泉)-(水沢)-(金ヶ崎)-(花巻)-(盛岡)ー(渋民)-(一戸)-(三戸)-(浅水)-(五戸)-(七戸)-(野辺地)-(浅虫)-(青森)-(油川)-(蟹田)-(平館)-(三厩[みんやま])

仙台・松前道の別名

奥州街道、奥羽道中、奥州道、奥州路、奥街道、奥羽街道、奥羽道中、陸前街道、陸羽街道、仙台道中、松前道、南部街道、盛岡街道、江戸街道、江戸往還道。現R4号にほぼ相当する。

仙台・松前道の歴史

源頼朝の奥州進攻の道(1189)

藤原秀衝の死後、頼朝は義経をかくまったことを理由に鎌倉から大軍を率いて奥州征討を決行。かくて奥州藤原氏は滅亡した。

大名の参勤交代路

松前藩をはじめ盛岡(南部家)、仙台(伊達家)などの奥州諸大名(29家)が参勤交代に利用した道である。

松尾芭蕉の「奥の細道」漂泊の旅(1689)

それは古来から和歌に詠まれた「歌枕」の名所を訪ね歩く旅であったが、江戸から平泉までは奥羽街道~仙台・松前道をほぼ利用している。旅に出た年が平泉滅亡(1189)の500年後にあたるのは、決して偶然ではなく恐らく意識してのことと思われる。

伊能忠敬は全国沿岸測量のため三度も歩く

最初は千住から三厩まで(1800年)。往路に21日、復路に30日間を所要した。これは時速5.5KM(推測)に相当し末整備の道や山道を考慮すれば驚異的な速さと言える。翌年は復路のみ利用した(28日間)。三度目は千住~白河である。(1802)。

吉田松陰 東北遊歴の旅(1852)

松陰が敬幕する高山彦九郎(1748~93)は羽州街道を利用して津軽半島(宇鉄)に着くが、蝦夷地への渡航は断念している。帰路は仙台・松前道を南下した。彦九郎の憂国の志を受け継ぐ松陰もまた日本海側から津軽半島(三厩)に到達している。熊本藩士宮部鼎蔵[ていぞう]が同行した。帰路は一関まで仙台・松前道を利用して江戸に向かった。

尾去沢鉱山の銅の輸送路

尾去沢は、現鹿角市(秋田県北東)にあり、1765年以来南部藩直営の大銅山であった。
花輪、田子、三戸などを経由して野辺地から搬出された。

明治天皇の巡幸路

2回目の巡幸(1876)は奥州街道(日光へ社参)、仙台・松前道を青森まで北上され青森からは船で北海道へ(函館、五稜郭など)。復路は横浜まで海路であった。
5回目の巡幸(1881)も仙台・松前道を北上されたが、北海道(小樽、札幌、白老、室蘭など)のあと羽州街道(参照されたい)などを通り帰京された。これは77日間に及ぶ最長の巡幸であった。このように天皇は東北へ二度も巡幸され関連する石碑が実に多い。それは街道の証しでもある。

仙台・松前道歩き旅アドバイス

今回の歩き旅

かなり長距離な街道ゆえに歴史的に興味深くて魅力的な所に絞った。青森ねぶた祭は日本を代表する祭(国重文)の一つであり特別に加えた。尚、コース1~10までは東日本大震災以前の旅である。

アドバイス

無味乾燥な歩き旅にしないためにも、重伝建、社寺や城跡などに寄り道をしたい。

お勧めは、霞ヶ城公園、長坂跡(国見峠)、船岡城址公園、青葉城、貞山堀運河、九戸城跡、三内丸山遺跡など。コースとしては9の高山峠越えが「歴史の道」に選定されている。栗原市高清水の古道も短いが秀逸している。

仙台・松前道歩きコースプラン

仙台・松前道歩きコース

  コース ハイライト・見所
松前道
1 鏡石~須賀川~郡山 須賀川ー里塚
2 二本松~福島~飯坂 霞ヶ城公園
3 桑折~国見峠~貝田 旧伊達郡役所、国見峠長坂跡
4 白石~船岡から槻木 船岡城址公園
5 岩沼~名取~仙台 二木の松、青葉城
6 高清水~筑館~金成 旧奥州街道跡(高清水)
7 有壁~一関~平泉 旧有壁宿本陣、中尊寺
8 水沢~金ヶ崎~盛岡 金ヶ崎(重伝建)、旧盛岡銀行
9 渋民、一戸~高山峠 浪打峠、高山峠
10 浅水~五戸~野辺地 江渡家住宅、常夜灯公園
11 浅虫~青森~油川 三内丸山遺跡
12 青森ねぶた祭 大型ねぶたの運行
13 蟹田~平館 松並木、平館灯台