長崎街道を歩く旅
長崎街道の地図
長崎街道のルート
長崎街道は小倉(現北九州市)常盤[ときわ]橋から、木屋瀬、山家、神埼、佐賀、嬉野。彼杵、大村、諫早を経て肥前・長崎に至る57里(223km)の街道。長崎街道の宿場数は25宿以上で通行には6~7日所要した。(長崎街道の本・地図などはこちらを参照)
長崎街道ウォーキング・コースプラン
長崎街道歩きのルート
長崎街道を歩くコースを8つに分割して紹介しています。リンク先を開いてご覧ください。
長崎街道歩きコース | 長崎街道のハイライト・見所 | |
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長崎街道 | ||
1 | 小倉~木屋瀬宿 | 常盤橋・黒崎の松並木・木屋瀬の町並み |
2 | 内野宿~原田宿 | 冷水峠 |
3 | 佐賀宿 | 佐賀市内(柳町通り、エビス像)・吉野ヶ里歴史公園 |
4 | 塩田宿~彼杵宿 牛津~合流地点 |
塩田宿・俵坂峠 |
5 | 大村宿~諫早 | 鈴田峠 |
6 | 諫早~日見宿 | 井樋ノ尾峠、諫早公園 |
7 | 日見宿~日見峠 | 日見峠 |
8 | 日見峠~長崎 | 日見峠から長崎市内 |
長崎街道周辺施設の案内はこちら(グラバー園・出島・孔子廟・眼鏡橋など)。
長崎街道の歴史
江戸時代の長崎街道
平戸に通じる唐津街道に代り、長崎街道を整備し九州において最重要視した。家康は、長崎を天領(直轄領)と定め海外貿易の拠点とした。
また、重要ポスト・長崎奉行を二人制とし(1633)、その後は1人が長崎常駐となる。
したがって参勤交代の大名の他に、この長崎奉行グループも、絶えず長崎街道を利用して江戸まで往復した。
長崎街道の別名 シュガーロードの由来
福岡藩領では長崎街道のことを「冷水(ひやみず)道」「筑前六宿」とも呼んだ。また最近では「シュガーロード」という名称も目にする。 それは、当時日本では貴重であった砂糖が長崎を通して輸入され、長崎街道を通って輸送され、輸入された砂糖が九州の食文化に多大な影響を与えたからである。カステラ・丸ボーロ・鶏卵そうめんなどの菓子文化も誕生した。
長崎街道の特異性
他街道とは異なり、この長崎街道は海外の物資、文化、学問、技術、文献それに海外情報(主としてカピタンが提出した「オランダ風説書[ふうせつがき]による)などが移入された重要なルートであった。
カピタン(オランダ商館長)と長崎街道
新任カピタンは、江戸で将軍に拝謁する習慣があり、その際に対日貿易許可の返礼として献上品を贈ることが義務付けられていた。
カピタンの任期は原則1年のため、江戸参府は1850年まで計166回に及んでいる。この歴代カピタン(162代続く)たちも、大名と同等の扱いを受け、長崎街道を利用し江戸まで往復した。それは総勢150~200人、3ヶ月を要する大旅行であった。
黄檗[おうばく]宗と長崎街道
1654年 長崎に渡来した隠元が伝えた新しい禅宗が黄檗宗である。時の将軍・家綱の援助を受け京都(宇治)に万福寺を開くが、長崎(崇福寺)も、もう一つの中心地となり僧侶たちが長崎街道を往来した。
異国の珍獣と長崎街道
象、キリン、ラクダ、オランウータン、ロイアルト(ナマケモノの一種)、ヤマアラシ、トラ、鷲、孔雀、七面鳥、ヒクイドリ、青インコなどが長崎街道を往来した。ラクダは「おしどり」のようにぴったり寄り添って歩いた人気者だった、
しかし、「スーパースター」は1728年長崎に入港したベトナム象である。実は時の将軍吉宗のリクエストで来日したのだが、翌春から長崎街道を経て2ヶ月半かかって江戸に到着し、将軍、諸大名の前で曲芸を披露した。
道中、小倉や大坂でも大変な評判で京都・御所では天皇・上皇ともに謁見した。特に長崎街道の小倉宿では数日前から場所取り合戦をするほどの騒ぎ。
このゾウ(7歳の男児)くん一日16~20Km歩いたとのことである。
現在の長崎街道
長崎街道は現在R200号、R34号に継承され、JRでは筑豊・長崎・佐世保・大村線に相当する。
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