善光寺街道/ぜんこうじかいどう

善光寺街道のルート

<中山道>-(洗馬)-(郷原)-(村井)-(松本)-(岡田)-[刈谷原峠]-(刈谷原)-(会田)-[立峠]-(乱橋)-[中ノ峠]-(西条)-(青柳)-(麻績)-[猿ヶ馬場峠]-(稲荷山)-(篠ノ井追分)→{1 丹波島→善光寺 2 (矢代の渡し)<北国街道>(矢代)}

善光寺街道は中山道と北国街道を連結するルートを通る街道だ。善光寺への参詣には江戸方面から北国街道を京・大阪・名古屋方面からは中山道を利用したのである。
大井(恵那市)までは下街道(善光寺街道ともいう)を通行した。

善光寺街道の別名

善光寺西街道、善光寺道、北国西街道などが善光寺街道の別名である。

善光寺街道の正式名

善光寺街道は正式には北国西脇往還と呼ばれていた。

善光寺街道の歴史

善光寺街道は信仰の道

「遠くとも一生に一度は詣れ」とうたわれた名刹・善光寺。その創建は7c.後半と推定されている。

麻績の住人、本田善光が本尊(秘仏とされる)を難波から、もたらしたとされ、これが寺名の由来とか。たびたび善光寺は炎上したが、その都度再建された。

源頼朝は所領を寄進すると共に再建を助成。その後武田信玄が本尊を持ち去り甲府に新善光寺を建ててからは全くさびれたが、豊臣秀吉の頃に本尊が返還され門前に活気が戻る。江戸期にも火災に見舞われたが、4年の歳月を費やし現在の本堂が18c.初に再建された。これ以降、善光寺信仰が広く民衆の世界に浸透した。

「牛にひかれて善光寺参り」。極楽往生を願って全国各地から多くの善男善女が参拝する(現在は年間約700万人)。

江戸時代の善光寺街道

伊勢を参拝し西国札所をまわった後、善光寺に寄り江戸に戻るというのが当時のお決まりの観光ルートであった。

芭蕉像

芭蕉像(伊賀上野)

[松尾芭蕉]

京都から中山道を発ち、洗馬から歌枕の地、姨捨へ向かい更級の月見を楽しむ。あと善光寺街道を通って善光寺に詣で江戸に戻る。(「更級紀行」1688)。

[菅江真澄]

真澄も道中記を残している。洗馬に一年余滞在したあと善光寺に向かい(1784)戸隠にも参詣。その後、郷里(三河)には戻らず北国街道、北陸を経て奥州各地を遊覧した。

[十返舎一九]

健脚の人気作家・一九は取材旅行のため木曽路から松本に入り善光寺に参詣した(1814)。その後は北陸・奥州を回り江戸に帰った。

明治時代の善光寺街道

[明治天皇の巡幸] 

北国街道の矢代の渡しを経て丹波島、善光寺に入る。高田からは北陸道を北上(1878)。あと松本、村井、郷原と南下、洗馬から中山道に入り大井より名古屋に向かう(1880)。

正岡子規

正岡子規

[正岡子規] 

東大哲学科の学生だった子規は郷里(松山)への帰省の途次(1891、夏)上野から軽井沢に出て長野(善光寺)に入った。その後、この歩き旅とは逆順で稲荷山、麻績、乱橋、松本などを訪れている(「かけはしの記」)。

[鉄道の開通」

長野駅の開設(1888)後、塩尻~篠ノ井間の篠ノ井線が開業(1902)。これにより参詣は歩き旅から鉄道利用の団体旅行の時代に入った。

今回の善光寺街道歩き旅

厳密に言えば善光寺街道は篠ノ井追分までであるが「仏作って魂入れず」のたとえの如く善光寺を外すことは出来ない。と共に篠ノ井追分宿との関連で矢代の渡し跡周辺も追加した。

善光寺街道歩き旅アドバイス

善光寺街道コース3、5、7

急坂が多い。山辺の道で変化に富んだ景観が楽しめる。これぞ歩き旅の醍醐味だ。しかし冬~春は雪深く避けた方が無難である。問題はアクセスが悪く会田、麻績には宿泊所がないこと。

善光寺街道コース3

バス(松本電鉄の四賀線)で松本に戻るか、高速バス(長野道四賀から乗車。そこまでは地域バスを利用し大木戸で下車)で長野へ行くのも一案。

善光寺街道コース5

西条での宿泊は可能。

善光寺街道コース7

前日に篠ノ井で泊まり翌朝JRで移動。聖高原駅から歩き、多少距離は長いが(約13km)稲荷山温泉で泊まることは可能。

  コース 見どころ、ハイライトなど
善光寺街道
1 洗馬~郷原~村井 山城屋、郷福寺、短歌館
2 松本~岡田 松本中町通り、(松本城)
3 刈谷原峠越え 峠の石仏群、脇本陣
4 会田宿の散策 町並み、常夜灯、岩井堂
5 立峠~乱橋~中ノ峠 立峠の石畳、乱橋の旅籠跡
6 西条~青柳~麻績 観音寺、青柳の切通し、麻績宿
7 猿ヶ馬場峠越え 弘法清水、聖湖
8 稲荷山~篠ノ井 稲荷山土蔵群、篠ノ井追分宿碑
9 篠ノ井~丹波島 原茶屋本陣跡、丹波島の町並
10 善光寺表参道 善光寺、景観重要建造物