東海道 五日目の街道歩き旅 [富田~宮~有松編]
富田
鯨取り船神事
富田の鳥出神社境内で古式捕鯨が再現される。
鯨捕り
ハリボテの鯨が所狭しとよく暴れる。
富田けんか祭
敵味方の区別をつけた若者約50人が一つの太鼓につき鉦が神社に入るのを妨害する迫力のある祭。以上3枚、1987年8月15日撮影。
安永の常夜灯
安永は町屋川を利用した水運の船着き場で立場(休憩所)だった。この常夜灯は1818年建つ。高さは約5.4m。
桑名
桑名市博物館西の道標
「左、江戸道」「右、京いせ道」。ここへ移設された道標とのこと。
桑名城跡
ここは「歴史を語る公園」。手前は三条大橋レプリカ。
本多忠勝像
桑名城跡(九華公園)に建つ。徳川四天王の一人。
歌行灯句碑
泉鏡花が夜の桑名の町を背景に描いた「歌行灯[うたあんどん]」(1910年)の舞台となった船津屋(もと料理旅館)。「かはをそに火をぬすまれて、あけやすき」久保田万太郎(鏡花の門下)の作。
七里の渡し(写真左に碑)
桑名の船着場には、伊勢路の起点となる伊勢神宮の大鳥居(写真右端)と常夜灯が建つ。
船旅
普通は7里だが、干潮時は遠回りの10里で約3hの船旅だった。右端は桑名城蟠龍櫓(復元)。
七里渡青鷺川旧跡
旧跡碑は桑名市長島町福吉に建つ。青鷺川は明治時代、河川改修で埋め立てられた。
間遠渡
まどおのわたし。
七里の渡しの別名である。壬申の乱(672)の際、天武天皇が桑名から熱田に渡る時の言葉「間遠なり」に由来するらしい。1枚前の写真の石碑の基部3面に「間」「遠」「渡」の文字が刻まれている。
長島
尾張大橋南詰の街道碑
明治に入り、七里の渡しは廃止され新東海道が設定された。
ふたつやの渡
明治に入り弥富が宿駅に指定され栄えた。桑名や長島への船が昭和初期まで往来した。
井桁屋酒店
尾張大橋の北詰には、東海道碑(写真中央)が、さりげなく建つ。明治東海道のルートにあたる。
宮
宮の渡し後
宮という地名は熱田神宮に由来。船着き場は今、歴史公園となっている。右に常夜灯、左は宮宿に時を告げた鐘楼(復元)。
宮宿
宮宿は熱田神宮の門前町であり宿場。名古屋城下までは約7kmと離れている。
笠寺観音
正しくは笠覆寺[りゅうふくじ]。心優しい娘が青年貴族に見初められた笠にまつわる伝説が残る。そのため縁結び祈る参拝者が多い。
笠寺一里塚
江戸から88番目の一里塚。東側だけが残る。
有松
千句塚公園
「星崎の闇を見よとやなく千鳥」松尾芭蕉の句碑が公園入口に建つ。
有松
絞りの町、有松にやって来た。この竹田家は広大な間口をもつ商家。
有松絞りの「中濱」
黒漆喰塗り仕上げの塗籠造り。
重厚な造りの井桁屋
この服部邸は県の有形文化財。江戸時代の建物が残るここ有松は歌川広重など多くの画家に描かれた。
土蔵造り
有松には江戸末期の土蔵造りの家屋が多く残る。左は服部家土蔵。
有松山車会館
ちなみに有松はその後、古い町並みと景観を守るため道路脇の電柱を撤去した(2011)。
有松宿をふり返る
絞りと山車と塗籠め造りの町を後にして次は桶狭間に向かう。
豊明
桶狭間古戦場跡
織田信長の奇襲(1560)にあい名門今川家が滅ぶ。当時の兵力は今川2.5万に対し、織田3,000だったという。
高徳院
風雨を避けるため今川義元が本陣をおいた所。
阿野一里塚
街道の両側に残っている。
東海道歩きコース
コース | 見どころ、ハイライトなど | |
---|---|---|
1 | 京都(三条大橋)~大津~瀬田 | 逢坂峠、義仲寺 |
2 | 草津~手原~六地藏 | 草津の追分道標、旧和中散本舗 |
3 | 水口~土山~鈴鹿峠 | 土山宿、鈴鹿峠 |
4 | 関~亀山~日永 | 関宿、野村一里塚 |
5 | 富田~宮~有松 | 七里の渡し、宮の渡し、有松 |
6 | 知立~岡崎~御油 | 無量寿寺、八丁蔵通り、御油の松並木 |
7 | 豊橋~新居~舞坂 | 新居の関所、舞坂の松並木 |
8 | 見付~袋井~掛川 | 旧見付学校、掛川城 |
9 | 掛川大祭 | かんからまち、大獅子、奴道中 |
10 | 日坂~小夜の中山~金谷 | 小夜の中山、菊川坂、金谷坂 |
11 | 島田~藤枝~宇津ノ谷 | 日本坂、つたの細道 |
12 | 丸子~蒲原~沼津 | 清見寺、薩埵峠 |
13 | 三島~箱根西坂~箱根峠 | 三島大社、山中城址、小枯木坂 |
14 | 箱根峠~畑宿~小田原 | 甘酒茶屋、箱根関跡、石垣山 |
15 | 酒匂~藤沢~権太坂 | 化粧坂、権太坂 |
16 | 程ヶ谷~川崎~日本橋 | 横浜、泉岳寺、日本橋 |
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