日向街道/ひゅうがかいどう

日向街道が通る日向とは宮崎県と鹿児島の一部を占める旧国名である「この国は日の出ずる方に向けり」の意のようだ。

日向街道のルート

小倉→大橋(現行橋)→中津→[1豊後高田→杵築[きつき]ー立石] [2四日市→宇佐]→日出[ひじ]→別府→府内(現大分)→臼杵→延岡→美々津[みみつ]→高鍋→佐土原[さどわら]→宮崎→鹿児島
JR日豊本線やR10号と並行する(国道とは部分的に重なる)。

日向街道の別名

中津街道、豊前街道、日向筋(薩摩藩の東目筋)

日向街道の歴史

鎌倉時代

時宗の開祖一遍上人が伊予から上陸し、九州を遊行(布教)している。別府には上人が浜、上人湯、上人町などの名が残る。

室町時代

フランシスコ=ザビエル(1506~52)は鹿児島上陸後、平戸、京都、山口に布教。その後、豊後の領主大友宗麟(義鎮)の招きを受け山口から大分に向かった(1551)。その時のルートが西鹿鳴越[かなごえ](杵築市山香町~日出町)で戦国時代の日向街道である。明治になり新しい道路が開かれ鹿鳴越はすたれたが、今はハイカーに利用されている。

安土桃山時代

豊臣秀吉の九州攻めの折、弟秀長は日向街道沿いに進攻した(1587年)。小倉、宇佐、高崎、府内。鶴賀、県[あがた](現延岡)、美々津、佐土原と南下した。

江戸時代

貝原益軒 史跡調査(公用)のため別府から海路で府内に入り(1674)「豊国紀行」を著す。
古川古松軒 健脚の地理学者。山陽から九州に入り東海岸を南下(1783)、「西遊雑紀」を著す。
菱屋平七 名古屋の豪商。小倉から歩き(1802)宇佐神宮を参詣する。
久留米、長崎、博多などをまわり「筑紫紀行」を著す。
伊能忠敬 街道歩きには、よく登場する人物。
第七次測量(1809)のため小倉から九州東岸を測量した。
頼山陽 九州遊歴(1818)は数ヶ月に及んだ。
その旅の終わりに日田から中津へ出、海路で下関に向かう。

明治時代

西郷軍の敗走 西南戦争(1877)の西郷軍は熊本撤退後、高崎・高鍋・美々津・延岡と敗走を続け、最終的に城山(鹿児島)たどり着く。
夏目漱石 熊本赴任中の頃(1899)、鳥栖から博多に出て小倉に宿泊。あと豊州鉄道(日豊本線の前身)の終点、柳ヶ浦で下車。歩いて宇佐神宮に参詣している。その後、耶馬渓、日出などをまわり熊本に戻った。
田山花袋 かなりの健脚[秋田街道参照]。中津、宇佐、亀川温泉、別府、宮崎、霧島、鹿児島などをまわる。約1カ月にわたり九州を旅行した(1908)。

昭和初期

種田山頭火 西日本の街道歩きにはよく登場する漂泊の俳人。山口県出身であるが、熊本を生活の拠点にしていた関係で、九州各地をかなり歩いている。1929年には熊本から中津、四日市、宇佐、杵築、別府、臼杵などを行脚。翌年は佐土原、美々津、延岡、耶馬渓、中津、行橋、小倉などを行脚している。

日向街道歩きコースプラン

今回の日向街道歩き旅

美々津以南の歩き旅は何となく食指が動かずはしょる。街道筋ではないが、特別に奇祭・銀鏡神楽[しろみかぐら]を加えた。

日向街道歩きのアドバイス

国東[くにさき]半島は魅力的な地であるが、マイカーは別として歩き旅には不便である。豊後高田市街から奈良ボンネットバスが運行している。但し、不定期で回数が少ないのが難点。せめて熊野磨崖仏だけでもという人にはJR中山香駅からが近い。平坦な道ではないが、約5kmの距離。駅にはタクシーがある。

日向街道歩きのコース

  コース ハイライト・見所
1 門司港、小倉 門司港レトロ、小倉城
2 苅田町与原~行橋、中津 旧飴屋門、中津城
3 宇佐神宮周辺 本殿、南楼門、西大門、呉橋
4 豊後高田 昭和の街
5 中山香~田染 熊野磨崖仏
6 杵築の散策 杵築城、武家屋敷、坂道ウォ―ク
7 西鹿鳴越~豊後豊岡 ザビエルの通った道
8 亀川~東別府 竹瓦温泉
9 大分市街、中戸次 府内城、中戸次の町並み
10 臼杵、延岡、日向市 臼杵石仏、仁王座歴史の道
11 美々津、西都市東米良 美々津の町並み、銀鏡神楽