高野街道 三日目の街道歩き旅
[高野街道 学文路~高野山(女人堂) 編]

学文路~高野山(女人堂)(和歌山県)の位置

地図

新旧の道標

三度、国道を横断する。寸前に新旧の道標が建つ。

	新旧の道標

学文路の道標

南海電鉄 学文路駅の東150mに建つ三里石。
ここから南下する不動坂道が、近世には高野山への表街道として利用された。
慈尊院へは、西へ一里である。

	学文路の道標

三叉路の道標から極楽橋までの地図

道中

旧名は香室で、梅の名所。この里に住んでいた高徳の士の教導により文盲が皆無になったという。
以来この地は「学文路」(かむろ)と呼ばれたようだ 。

	道中

石童丸

学文路は石童丸物語ゆかりの地。母子が泊ったという玉屋は駅前にその名を受け継いでいる。
この坂を登ると刈萱(かるかや)堂で、石童丸らの木像がある。

	石童丸

繁野

学文路から約1.5kmで九度山町に入る。繁野まで、ゆるやかに登ってきた。

	繁野

道中

道中の景観

	道中

河根(かね)へ

河根に向かう街道

	河根(かね)へ

河根峠を下る

河根峠を下って来た街道は、ヘアピンカーブして竹林(写真右奥)の方へ進む。

	河根峠を下る

竹林の道

竹林の道をふり返る。

	竹林の道

河根

河根は丹生川沿いのわずかな土地に開けた集落である。

	河根

旧本陣

河根の旧本陣 中屋旅館(写真左)。
往時は何軒かの旅籠や茶店が並んでいたという。

	旧本陣

千石橋

丹生川にかかる千石橋の傍らに二里石(右)。
幕府により橋がかけられ(1634年)、修理費として千石支給されたことから、この名がついたという。

	千石橋

二里石

名橋の傍らに建つ

	二里石

仇討ち

千石橋を渡ると急坂が続く。神谷に近いこの平坦地で、「日本最後の仇討ち」(1871年)があった。
説明板に詳細に記されている。これを契機に仇討ち禁止令が出された。(1873年)

	仇討ち

道標4基

まもなく神谷という集落に入るが、ここに道標が4基集中している。

	道標4基

一里塚

左の道標「右 京大坂道」。左から2番目が一里石「高野女人堂 一里」。3番目が「右 京大坂道 いせ」とある。

	一里塚

もと脇本陣(右)

神谷は「日が昇ると銭が涌く」とまでいわれた宿場で、旅人を相手とする女性も登場したようだ。
伊勢参宮の古市も有名だが。

	もと脇本陣(右)

神谷の「御成婚記念道程標」

明治33年(1900年)に皇太子(のちの大正天皇)が、結婚の報告に、三重・奈良・京都を公式巡啓され、
各地で熱い歓迎を受けたという。恐らくその時のものであろう。

	神谷の「御成婚記念道程標」

花のある風景

まもなく極楽橋

	花のある風景

朱色の極楽橋

もとは不動橋といわれていた。荒野の聖域と俗界を区切る結界をなし、橋の両端には地蔵が座っている 。

	朱色の極楽橋

地蔵

南海高野線が極楽橋まで開通(1929年)すると、街道筋の神谷宿はさびれた。

	地蔵

不動坂

これより山頂まではハードな不動坂だ。

	不動坂

いい汗かくかケーブルカーか

街道はケーブルカーの下をくぐり登っていく。
極楽橋駅から高野山駅までの標高差は332m。ケーブルカーだと約5分で到着する。

	いい汗かくかケーブルカーか

不動坂口

高野七口の一つ「不動坂口」。江戸時代には大門口よりもこちらが賑わった。
女人道は一周18kmほど。

	不動坂口

女人堂

高野七口(東から時計まわりで黒河口、大峯口、大滝口、相ノ浦口、龍神口、大門口、不動坂口)には、
それぞれの入り口に女人堂があった。現在残っている女人堂は、この不動坂口にある女人堂だけである。

	女人堂

唐津街道歩きコース

コースプラン
  コース 見どころ、ハイライトなど
1堺~河内長野 十三~九里石、晴明塚(西高野街道)
2河内長野~橋本~学文路 紀見峠、学文路(高野街道)
3学文路~高野山(女人堂) 河根の旧本陣、女人堂(高野街道)
4八幡市~四條畷市~古市 出屋敷、野崎観音(東高野街道)
5富田林の散策 寺内町の町並み(東高野街道)
6富田林~河内長野、千早赤阪 赤阪城址、千早城址(東高野街道)
7布施~平野 杭全神社 全興寺(中高野街道)
8平野~河内松原 喜連、瓜破の町並み(中高野街道)