下野街道/しもつけかいどう(会津西街道)
下野街道(会津西街道)の地図

下野街道(会津西街道)の別名
下野街道は日光街道、今市街道、中奥街道、会津街道、会津西街道、南山[みなみやま](南会津郡などの旧地域名で幕府直轄地だった)通り、南山道、南通り、などの名前で呼ばれていた。以上、数多いが今は下野街道に統一されている。
下野街道(会津西街道)のルート
[今市][藤原][五十里[いかり]<山王峠>[糸沢](旧荒海[あらかい]村)[田島][倉谷]<中山峠>[沼山][大内]<大内峠><氷玉峠>[関山][会津本郷][会津城下]
全長 32里(約125km)。
下野街道(会津西街道)の歴史
参勤交代の街道
会津、庄内、米沢藩や北越の新発田、村上藩などが利用した。会津5街道(他に白河、越後、米沢、二本松街道)の一つで、会津と江戸を結ぶ最短にして且、重要な道であった。
伊達政宗や豊臣秀吉も歩いた道
伊達政宗は小田原参陣の折(1590)、会津から大内宿まで来ている。結局、関東を避け越後、信濃経由で小田原に向かう。このため秀吉から参陣遅延を責められ会津を没収された。
豊臣秀吉は、奥州仕置を終えた後、黒川(会津若松の旧名)から、京都に戻るときに利用している。因みに往路は奥州街道の白河から背炙[せあぶり]峠越えだった。
幕末に吉田松陰、明治初期にはイザベラ・バードも通った道
吉田松陰は東北地方見聞旅行(1852)の帰途、仙台・白石・米沢を経て若松に入りこの街道を通っている。田島、山王峠、日光を経て江戸に帰着した。
イザベラ・バードは、松陰とは逆のコースで日光から北上した。大内宿には彼女が宿泊した宿も残る。その後会津高田から越後街道で新潟に向かっている。
江戸中期の地理学者古川古松軒も東北巡検の際、大内・田島などを訪れている(1788)。
重伝建の大内宿と歴史の道が重なる魅惑の街道
会津藩は戦略的必要から大内宿を焼き払おうとしたが、名主の必死の懇願により、焼打ちを免れたのだった。
また、明治中期(1884)、会津三方道路のコースからはずれ山間の中に孤立した。このことが逆に江戸時代の宿場町の面影を色濃く残すことにつながった!
いまや人気の観光スポットとして生まれ変わった。年間116万の観光客が訪れる。
物資輸送と信仰の道
会津藩や南山御蔵入領の米が江戸に運ばれた(江戸回米路)。他には味噌、醤油、坂下煙草、麻などが輸送されている。
また、この街道を南下すれば今市に至り、日光東照宮や二荒山神社への参詣路となる。逆に北上すれば会津若松に至り、湯殿山参詣の旅人は米沢、山形を目指し更に北上を続けたことであろう。湯殿山は出羽三山の一つで江戸時代には信仰の霊地だった。
現況
東武鉄道(鬼怒川線)、野岩[やがん]鉄道(名称は下野と岩代を結ぶことに由来)、会津鉄道によって下野街道は再現されている観がある。
国道121号線も同様。但し、鉄道も国道も会津下郷以北は旧道のコースから大きくそれている。
今回の下野街道歩き旅
歴史の道に選定されている山王峠と大内宿前後を重点的に歩いた。
また街道沿いではないが、特別に会津若松の飯盛山通り周辺の史跡巡りをつけ加えた。
下野街道(会津西街道)歩きコースプラン
下野街道(会津西街道)歩きアドバイス
大内宿は民宿が多いので、一泊されるといい。朝・夕は大へん静かで味わい深いものがある。
会津若松市内は史跡が広範囲に散在するので、巡回バスやレンタルサイクルを利用するのも一法だ。
コース | 見どころ | |
---|---|---|
下野街道(会津西街道) | ||
1 | 日光(今市)~鬼怒川温泉 | 鬼怒川温泉 |
2 | 横川~山王峠~糸沢 | 山王峠 |
3 | 会津田島祇園祭 | 田島祇園際 |
4 | 小池~中山峠~沼山 | 中山峠 |
5 | 大内宿の散策 | 大内宿 |
6 | 大内~栃沢~会津本郷 | 氷玉峠、会津美里、 |
7 | 会津若松・飯盛山通り周辺 | 飯盛山通り、旧滝沢峠 |
8 | 鶴ヶ城~七日町通り | 鶴ヶ城、野口英世青春通り |
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