梼原街道/ゆすはらかいどう
街道のルート
須崎-葉山-布施ヶ坂-船戸-新田-当別峠-梼原-宮野々-九十九曲[くじゅくまがり]峠-城川町-肱[ひじ]川町-五十崎[いかざき]町-大洲
街道の歴史
津野山郷を通る道
旧葉山村、東津野村、梼原町を合わせて津野山郷と呼んだ。葉山は旧名半山[はやま]で鎌倉時代の豪族・津野氏が姫野々[ひめのの]を拠点とした要害地である。
安土桃山時代に入ると、豪族・長宗我部元親[ちょうそかべもとちか]が、この津野山郷を含め土佐を統一。長宗我部軍は、この街道を通りさらに伊予(愛媛県)を攻め三滝城(城川町)などを落とし、やがて四国全土を統一した(1585)。
江戸時代
長宗我部氏に代わり、山内氏による土佐一国の支配が明治維新まで続く。津野山郷、とりわけ梼原は反骨精神の強い地であった。土佐藩の圧政に耐えかねた津野山郷民の一揆がしばしば発生した。その一揆を構えるため庄屋や指導者が協議のため往来した街道である。梼原村庄屋・中平善之進は捕らわれ処刑(1757)されたが、その打首の地も街道途中にある。
坂本龍馬 脱藩の道
幕末のヒーロー・坂本龍馬(1835~67)が脱藩した険路である。龍馬だけでなく多くの志士が維新を目指し大きな使命感に燃えながら駆け抜けた道。ただ宮野々から先の龍馬脱藩のルートは2説ある。旧説は九十九曲峠経由、1988年に発表された新説では宮野々から北上し韮ヶ峠~榎ヶ峠~泉ヶ峠を越える。歴史の道(文化庁、1996)にセレクトされたのも韮ヶ峠越えの方である。したがって今回の歩き旅も韮ヶ峠越えを計画したが、精査すると九十九曲峠までの距離よりも約4倍長くて険しく、宿泊地も極めて少ないので断念した。
龍馬が梼原の那須邸に宿泊(1862.3.25)したことは事実であるが、龍馬自身が脱藩について一切記録を残していないので、謎に包まれた面も多いのである。
(参照)京街道 コース2 伏見の寺田屋
風雲児・吉村虎太郎 維新の道
梼原の庄屋の家に生まれ(1837)、彼自身も庄屋として活動した経歴を持つ。現・梼原高校が庄屋屋敷跡。虎太郎の脱藩は龍馬より、わずかに早い(1862.3.7)。
翌年、尊攘派公卿・中山忠光を擁して大和(奈良県)で挙兵。いわゆる天誅組の変である。五篠代官所を襲撃。その後吉野に転戦したが諸藩兵に囲まれ鷲家(わしか)で戦死した(1863)。26才の若さだった。
司馬遼太郎・一日千秋の道
「龍馬がゆく」は1962~66年にかけて産経新聞に連載された。これが1968年にはNHK大河ドラマ化。司馬作品としては第1作目にあたる。氏にとって「誠に気になる土地で、そこへ行きたいと思いつつ果たせなかった」憧れの土地・梼原。1985年10月ついに夫人を伴って取材のために梼原を訪問した。梼原では町を挙げて歓迎をうけた。この訪問での見聞録は同年12月から「街道を行く」に「梼原街道」として10回にわたり掲載された。誠に気になる街道である。
この歩き旅のアドバイス
韮ヶ峠、九十九曲峠のいずれを越えるにせよ難所、険しい山道である。直接、峠を越えるバスは勿論通っていない。服装・シューズのほか天候(雨天は避けたほうが無難)、歩行距離、宿泊地などに十分注意。
とにかく「土佐のチベット」(反乱を起こすという意味でなく)と、かつて言われた土佐の中でも特に山深い地であることを銘記すべきである。
1日目は梼原街道ではないが龍馬の生まれた高知市内をゆっくり散策してから、高知高陵交通バスで葉山まで移動するのも効率的。
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