薩摩街道/さつまかいどう
薩摩街道のルート
薩摩街道は日向街道と並び九州を南北に縦断する2大幹線ルートの1つ。
(鹿児島)―(伊集院)―(串木野)―(川内)―(阿久根)―(出水)―(米ノ津)―(水俣)―(佐敷)―(田浦)―(日奈久)―(八代)―(宇土)―(川尻)―(熊本)
熊本以北は→豊前街道を参照されたい。
薩摩街道の別名
薩摩街道は小倉筋(筋は街道の意)、西目筋、出水筋、出水街道、肥後街道、豊前街道、鹿児島街道、坊津街道とも呼ばれた。
薩摩街道の歴史
古代の薩摩街道
薩摩街道は景行天皇の九州平定ルート(伝説)。更に、その後皇子日本武尊[やまとたけるのみこと]を遣わして熊襲[くまそ](熊は肥後の球磨[くま]、襲は大隅の會於[そお]を指す)を攻め、九州を平定させたという。
大和朝廷時代には薩摩街道は官道。七道の一つ西海道の一部だった。
安土桃山時代の薩摩街道
豊臣秀吉の島津氏征伐(1587)のルートが薩摩街道。薩摩街道は20万の大軍団を率いて進んだ道である。
下関から佐敷まで1ヶ月かけて薩摩街道を南下。佐敷からは海路で出水へ。川内(泰平寺)に本陣を定めた。この時、弟の秀長は日向街道沿いに侵攻している。
江戸時代の薩摩街道
薩摩街道は九州諸大名の参勤交代のルート。薩摩の島津氏・八代・松井氏、人吉・相良氏、肥後・細川氏、柳川・立花氏、久留米・有馬氏の6藩が利用した。
薩摩では妙円寺詣りの街道。若き日の大久保利通や西郷隆盛も参加した。
幕末の薩摩街道
薩摩藩主島津斉彬の養女篤姫(天璋院)の嫁入りルート。17才の篤姫が将軍家(13代、徳川家定)へ嫁ぐため薩摩から薩摩街道を経て江戸へ2ヶ月がかりで向かった(1853:ペリー来航の年)。これは2008年大河ドラマ化され、ファーストシーンに西田橋が毎回登場した。
明治時代の薩摩街道
西南戦争(1877)で薩摩軍が北上したルート。
昭和時代の薩摩街道
司馬遼太郎が訪れた(1972)「肥薩のみち」。
氏は先ず田原坂へ。あと熊本城、八代、川内、鹿児島などを訪ね歩いた。傑作「翔ぶが如く」が毎日新聞に連載された年である。これは大河ドラマ化された(1990)。
現代の薩摩街道
薩摩街道はR3号、JR鹿児島本線とほぼ重なる。但し、川内~八代間は肥薩おれんじ鉄道。
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