野麦街道/のむぎかいどう

野麦とは

野麦街道のルート

野麦街道にある野麦峠一帯をおおっている熊笹[くまざさ]のことである。農民たちは稲穂に似た野麦の実を採取して粉に挽いてダンゴを作り飢餓をしのいだ。

野麦街道の歴史

奈良時代後期の野麦街道

野麦街道は信濃の国府と飛騨の国府を結ぶ官道だった。つまり、古代の東山道[とうさんどう](都を基点とする主要幹線道路の一つ)の飛騨支路にあたる。主に役人などに利用される重要な道だった。

戦国・江戸時代の野麦街道

豊臣秀吉の武将・金森長近により整備された野麦街道は幕府の役人(1692、飛騨は幕府の天領となる)が利用したので江戸街道とも言われた。実際にこの街道を歩いてみると「江戸街道」という石碑をよく目にする。野麦街道経由の方が中山道を利用するより短距離で江戸への近道だった(89里、356km)。

野麦街道は善光寺参詣の道

北陸や関西の人は野麦峠を越えて善光寺(長野県長野市)を目指した。「牛にひかれて善光寺参り」の言葉があり、古くから宗派を超えた国民的信仰を集めていた。また商業路として奈良井[ならい](中山道の宿駅)の曲物[まげもの]職人もこの峠を越えた。逆に信濃からは米や清酒などが運ばれた。

女工たちの悲哀と親孝行

日清戦争(1894~95)の頃、紡績産業発展を背景に飛騨の貧しい農村の少女たちは蚕糸[さんし]王国・長野県岡谷[おかや]地方の製糸工場へ出稼ぎに出された。少女たちは小学校を卒業したばかりの12~13才。信州へは勿論、徒歩で、しかも50~100人位の集団移動だった(工女宿に4泊5日)。岡谷では工女たちを糸姫と呼んでいた。しかし工場は薄暗くて高湿度、過酷な労働と、環境、待遇は劣悪だった。師走[しわす]になると女工たちが帰省のため野麦峠―崖からの転落、行き倒れ、猛吹雪、凍死などで命を落とすことさえある峠―を越えて父母が首を長くして待つ我が家へ向かった。娘たちが持ち帰る糸引きの貴重な現金収入は当時の農家にとって大変有難く、それは娘たちにとっての唯一の親孝行でもあった。

鰤[ぶり]ロードとしての野麦街道

ブリは日本海を回遊しており、越冬のため(11~12月)南下する途中、富山湾沿岸に設置された大型定置網で漁獲される。この寒ブリは全身に栄養がたっぷりと蓄えられて丸々と太っている(体重7~10kg)。このような越中ブリなど日本海の海産物が野麦街道を経て高山から信濃へ運ばれたのである。山間に住む信濃の人々にとっては貴重な蛋白源だった。信州では飛騨ブリといわれた。ちなみに1m以上の大きなブリは1尾10数万円もする。とにかく寒ブリは年(歳)取り魚、正月魚として重要だった。

明治の中頃、信州では仕入原価の5倍で売られたという。

野麦街道ルート・ガイド

心躍る旅

伝統的建造物群保存地区を歩いているだけでも癒される高山。
そして町歩きの楽しさを味わえる城下町の松本。この2つの大観光地を結び、かつ「日本アルプスの屋根」を越えるルートが野麦街道。これはもう、こたえられない歩き旅である。

野麦街道のルート

[高山・中橋] ― [上一之町] ― [吹尾町] ― [美女峠] ― [旧高根村・中之宿] ― [野麦峠]
[川浦] ― [寄合渡] ― [奈川渡] ― [島々] ― [波田] ― [松本]
全長24里、96km

野麦街道ウォーキング・ルート

コース 区間 野麦街道のハイライト・見所
野麦街道 野麦街道の概要
1 高山市内 重要伝統的建造物群保存地区
2 高山~旧朝日村 美女峠
3 旧朝日村~野麦峠入口 野麦の館
4 野麦峠~松本 野麦峠を越える
4 川浦~松本 川浦
5 松本市内 松本城