塩硝街道/えんしょうかいどう
塩硝街道の地図とメインルート
金沢城-小立野-土清水-湯涌(温泉)-横谷-刀利-ブナオ峠-西赤尾
塩硝街道の歴史
塩硝街道は地図にない秘密の道
炎症街道は五箇山に向かう加賀藩の陰道[かげみち](間道)で、幕府に提出する国絵図にも記載されなかった。その理由は軍事的に重要なもの(塩硝、つまり火薬の原料)を運ぶ道だったからであろう。
本来ならば煙硝とすべきを塩硝と表現しているのも秘密のためか。とにかく、これだけでも好奇心、冒険欲をそそられる街道である。
塩硝街道は現在、ほとんど廃道化しているが、部分的には面影が残る個所がある。
五箇山の煙硝は加賀藩の重要産業
五箇山で塩硝が製造された理由は色々ある。原料が豊富だったということ、生産に適した気候と合掌造り家屋。それに四方を険しい山に囲まれた隔絶の地、鳥も通わぬと言われた秘境だったこと。
秘密の製造と運搬には最適といえる。五箇山の塩硝は質量ともに日本一だった。幕末には年間37t以上も生産し好景気に沸いた。しかし、そののちは安価なチリ硝石などに圧倒され衰退した。
大槻伝蔵追悼の旅
日本3大お家騒動の一つ、加賀騒動の主人公・大槻伝蔵の最後は悲惨だった。
足軽の子として生まれ(1703)、茶坊主上がりの軽輩だが、6代藩主前田吉徳に抜擢され重用された。疲弊した藩財政改革に功績があり実質上、藩内ナンバーワンの実力者にのし上がった。しかし出る杭は打たれる。その異例・異常な立身出世は保守派から反感、妬み、憎悪をうけ吉徳死後(1745)に失脚。やがて不明朗な罪状により五箇山の祖山に流されたのである(1748)。これは正しく冤罪。
今は名誉回復されている。この機会に加賀藩の流刑地(谷が深い庄川には橋もなく逃亡は極めて困難と言われた)を訪ね大槻伝蔵を追悼したい。
蓮如上人の布教の旅
蓮如(1415~99)は吉崎御坊(福井県の旧金津町)に拠点を置き北陸への布教をおこなう。上人の行く先々で民衆は帰依し北陸は浄土真宗(戦国時代には一向宗と呼ばれていた)の殿堂と化した。
五箇山の人々も大坂石山本願寺の門徒だった。
世界遺産をめぐる旅
1995年12月、山人の生活圏が昔のままに保存されていることが高く評価され、白川郷とともにユネスコの世界遺産に登録された。五箇山にある相倉と菅沼の合掌造り集落・・・静かに佇[たたず]む美しい景観、日本の農山村の原風景の中をゆっくり訪ねてみたい。これは珠玉の旅である。
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