智頭往来/ちずおうらい
智頭往来の別名
上方[かみがた]往来、上方街道、因州往来、因州鳥取道、鹿野往来、因幡往来[いなばおうらい]、因幡街道、京街道
智頭往来のルート
(姫路)-(追分)-(橋崎)-(千本)-(三日月)-(平福[ひらふく])-<釜坂峠>-(大原)-<志戸坂峠>-(智頭)-(用瀬[もちがせ])-(鳥取)
全長27里余り
現 R373号に相当する。
智頭往来の歴史
国司通行の官道
因幡国司・大伴家持(718?~85)は、山陰道ではなく、因幡国府(鳥取市国府町)から志戸坂峠を越えて播磨へ出た。そして山陽道から都へ上がった。
また平時範も因幡国司に赴任(1099)した際、この街道を利用している。
後醍醐天皇
隠岐を脱出した(1333)天皇が、船上山から京へ引き上げるときに利用した。
羽柴(豊臣)秀吉
羽柴秀吉の軍勢が播磨方面から因幡国境を越えて吉川経家の鳥取城を攻撃、兵糧攻めにしている(1581)。
参勤交代の要道
鳥取藩(池田氏)を始め、山陰地方の各藩もこの街道を参勤交代路として利用した。
明治時代
京・大阪に近い若桜[わかさ]の戸倉越えの道(若桜街道)が重視され、この街道の重要性が次第に低下した。
大正時代
山陽の紡績工場へ働きに行くため、多くの娘たちが周旋屋に連れられ、志戸坂峠を越えたと伝わる。
智頭往来の意義
約21kmの区間が歴史の道に選定
志戸坂峠の南(西粟倉村坂根)から峠を越え、智頭宿北の市瀬まで延々と続く。
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