甲州街道(旧甲州街道)歩きの旅 ルート案内

旧甲州街道歩き旅アドバイス

江戸時代の甲州街道(旧甲州街道)は江戸の日本橋から甲州の下諏訪までを結ぶ街道。下諏訪で中山道に合流する。江戸時代の五街道の一つとはいえ中山道などに比べれば、甲州街道は歩き旅としては見劣りがする。街道歩きの対象とされにくいためか、旧甲州街道のルート沿いには街道案内の指示標識が少ない。

江戸時代には旧甲州街道のルートは約7日の旅程だったが、この甲州街道歩き旅では10コース(10日間)を設定した。ひたすら歩くだけ、道筋を追うだけの旅ではなく、寄り道の楽しさを味わい歴史と文化と景観を楽しむ旅でありたい。

ルートはできるだけ駅からのスタート、駅へのゴールを考慮して設定した。お勧めは1,5,7,8コース。特に5,8コースは甲州街道の圧巻である。

甲州街道のルート地図

甲州街道の地図とルート

(江戸・日本橋)-(内藤新宿)-(府中)-(八王子)-<小仏峠>-(上野原)-(大月)-<笹子峠>-(勝沼)-(石和[いさわ])-(甲府)-(韮山[にらやま])-(下諏訪)

新宿は甲州街道上に新しく設けた宿の意で、高遠[たかとお]藩内藤氏の敷地の一部を割いて宿駅が作られた(1698)。

また甲府~下諏訪までは、1610年に延長された区間である。

甲州街道歩きルートプラン

甲州街道歩きのコース

コースごとのページには該当する甲州街道の区間地図があります。

  1. 甲州街道(旧甲州街道)
  2. 下諏訪~JR茅野駅
    下諏訪宿の散策、高木の茶屋跡
  3. JR青柳駅~教来石
    御射山神戸一里塚、蔦木宿
    教来石~小淵沢駅間のバスは日に5本。小淵沢駅近くに宿泊可能
  4. 教来石~JR竜王駅
    台ヶ原宿
    教来石~小淵沢駅間のバスは日に5本。竜王駅近くに宿泊可能
  5. JR甲府駅~田野甲府宿の散策、景徳院
    田野には民宿が1軒
  6. JR甲斐大和駅~JR笹子駅
    笹子峠、矢立杉
    >約4時間半、歩くしかない
  7. JR初狩駅~犬目宿
    下花咲本陣跡、猿橋
    君恋温泉の宿は閉館
  8. 犬目宿~JR相模湖駅
    大椚
  9. JR相模湖駅~高尾山
    小原宿本陣、小仏峠、高尾山
    日本百名峠と東海自然歩道のセット
  10. JR高尾駅~京王線布田駅
    日野宿本陣、深大寺
  11. 京王線初代駅~JR東京駅
    江戸城(皇居)
    皇居東御苑の見学は9:00~16:00で無料(月・金曜休み)

甲州街道の街道名

甲州街道ははじめ「甲州海道」と呼ばれたが、幕令(1716)で甲州道中となり、その後甲州街道と呼ばれている。

甲州街道の経路は、ほぼR20号に相当する。甲州街道の総延長は53里2町余(約209km)あり、その間に45宿あった。

甲州街道の歴史

武田家の栄枯盛衰の足跡をたどる甲州街道

武田信玄は徳川家康を撃破した(三方ヶ原[みかたがはら]の戦、1572)戦国の勇将。しかし上洛途中に無念の病死(1573)。

その子武田勝頼(1546~82)は、その後設楽ヶ原[しだらがはら]で織田・徳川連合軍に大敗したが悲劇は続く。親族や家臣の離反・反逆である。笹子峠を越え、大月方面に落ち延びようとした駒飼で重臣・小山田信茂のまさかの裏切り。これが致命的だった。

2年後、勝頼らは、田野で無念の自害。サバイバルを図った小山田だったが進撃してきた織田方から不忠を咎められ処刑され、勝利者織田信長も3ヶ月足らずで本能寺に倒れる。戦国の世のなんと人の命のはかないことよ。まさにハードボイルドな世界である。

甲州街道は五街道の一つだが、参勤交代路としての利用は少ない

道路整備が不十分だったようで甲州街道を往来する旅人は東海道、中山道に比べ少なかった。また、甲州街道を参勤交代に利用したのは高島藩(諏訪)、高遠藩(伊那)、飯田藩の3藩だけだった。ちなみに東海道は159藩、中山道34、奥州街道17、日光街道6である。

江戸時代には甲州街道沿いは人気の観光ルートになっていたようで、十返舎一九の『甲州道中記』や仮名垣魯文の『身延参詣甲州道中膝栗毛』などの作品が残っている。

徳川家康の深謀遠慮を秘める甲州街道

幕藩体制維持のため甲州街道を軍事道路として整備した。非常事態の場合は、甲州街道が将軍の避難ルートとなる。

有事に備え八王子(幕府直轄地)には徳川家直参の千人同心(江戸防衛の任を負う、いわば国境警備隊。武田家の遺臣たちで組織されていた)を配備。これらが避難場所の甲府城までガードするという寸法である。

甲府は富士川を下れば駿府[すんぷ]に、北進すれば中山道にも出られる交通の要所。しかし、甲州街道が退却路として利用されたことは皆無だった。備えあれば憂いなし、いかにも家康らしい。

江戸時代に多くの文人墨客が往来した甲州街道

  • 松尾芭蕉(1644~94)
    奥の細道は余にも有名であるが、それ以前に野ざらし紀行の長い旅に出ている。
    江戸を出発し、箱根・富士川・伊勢・伊賀上野・大和・吉野・大垣・奈良・大津・鳴海と歩き、最後に甲州道中を経て帰着(1685)している。
    野ざらしを心に風のしむ身かな。これがその紀行文の冒頭の句である。
  • 葛飾北斎 (1760~1849)
    風景版画の富嶽三十六景は有名。
    その一つに犬目峠がある。
  • 安藤(歌川)広重 (1797~1858)
    浮世絵師。 江戸から八王子、野田尻、黒野田を経て甲府へ旅した。
  • 十返舎一九 (1765~1831)
    戯作者。 取材のため頻繁に旅行した。甲州道中記がある。
  • 仮名垣魯文 (1829~1894)
    戯作者。身延参詣甲州道中膝栗毛。

庶民に大迷惑の茶壷道中が通る甲州街道

1632年から毎年、新茶を宇治から江戸の将軍に献上するため茶壷が甲州街道を通行した。ルートは一定していないが、中山道の下諏訪から旧甲州街道を東進した。

ズイズイズッコロバシ胡麻味噌ズイという不可解な歌詞で始まる童歌にあるように、沿道の庶民は茶壷に追われて逃げまわっていたのであろう。将軍家御用ということで無理が通ったようだ。事実、早朝から煙は出せない。故に炊事に困る。死人が出ても葬式出せない。とにかく粗相のないよう庶民は縛られた。大名でさえも茶壷に会うと駕籠から下りて礼を尽くしたという。

幕末維新には東征軍(官軍)や甲陽鎮撫隊が駆け抜けた甲州街道

1868年は日本史上、激動の年。1月、戊辰戦争勃発。旧新撰組を中核とする甲陽鎮撫隊が結成され(隊長の近藤勇は大名待遇)江戸から旧甲州街道を西進し甲府城を目指した。3月3日には意気込んで雪の小仏峠を越えた。

ちょうど同じ日、下諏訪では赤報隊の隊長相良総三[さがらそうぞう](1839~68)ら幹部が偽官軍として処刑されている。彼らは東征軍(官軍)先鋒隊として信州を進撃中だった。これは新政府による謀殺、1928年には名誉回復している。

その後、板垣退助らの東征軍は甲府城を占領。笹子峠を越えてきた甲陽鎮撫隊を柏尾(勝沼)で撃破した。翌日、江戸無血開城となり、ここに江戸幕府は名実ともに崩壊した。

明治天皇の4回目の巡幸ルートが甲州街道

日本全国の地理、人民、風土などの視察を目的に1872年(明治5)から始まった。以下1876年、1878、1880、1885年と続いた。この4回目は所要38日間のうち、最初の8日間に甲州街道を通られている。6月16日の出発で八王子、上野原、黒野田(笹子)、甲府(3泊)、台ヶ原、下諏訪に宿泊された。勿論、徒歩ではないが、難所の笹子峠は雨天で苦労されたようである。この巡幸から景勝地撮影のため写真師が随行した。

また、これに先立ち各地の道路が改修されたようである。中山道や北陸道などでも、そうであるが明治天皇関連の石碑を街道沿いによく見かける。逆に言えば、それは街道であったことの証明であり歩き旅に安心感と親近感を与えてくれる。