豊前街道 三日目の街道歩き旅 [南関~羽犬塚編]
南関~筑後(福岡県)
南関橋
関川にかかる、この南関橋を渡ると南関のメイン・ストリート。
とはいっても明治中期からは、鹿児島本線が西方の有明海岸を走り町はさびれた。
北原白秋の歌碑
ソーメンは、南関町の特産品。バスセンター近くに北原白秋(1885~1992)の歌碑が建つ。
掛け並[な]めて 玉名乙女がこきのばす翁素麺[そうめん]は長き白糸
正勝寺
西南戦争の時、政府軍の大本営が置かれた正勝寺。征討総督
有栖川宮熾仁[ありすがわのみやたるひと]親王(1835~95)がここで、高瀬・山鹿方面への出兵を指揮。
南関御茶屋跡
南関御茶屋跡。
参勤交代の折、藩主が宿泊したり、昼食をとったところ。
白秋が故郷に錦を飾った折(1928)は、ここで歓迎会も開かれた。
南関御茶屋跡
御茶屋には心字をかたどった池を配した庭園(写真右)が残っている。
南関番所跡
この南関町役場(写真左)の近くには、南関番所がおかれ肥後藩に出入りする人々の検閲や取締りを行った
南関第一小学校
北原白秋は母の里である南関の生まれ。
幼少のころは柳川から、たびたび通った。この南関第一小学校の校歌は白秋が作詞(1937)している。
柳川
街道筋の瀬高から白秋の出身地柳川へは西へ約6km。
時間に余裕があれば、訪れたい町だ。柳川(旧名:柳河)はクリークが発達し水郷として知られる旧城下町。ここは川下りの乗船場。
柳川の風景
白壁には、ナマコ壁。風に揺れる柳。風情のある川沿いの800mは日本の道100選にセレクトされている。右へ進むと北原白秋生家がある。
油屋
ここが白秋の生家油屋。
柳川地方で一,二を争う造り酒屋だった。白秋は上京して早大に入学する19才までの青年期を柳川で過ごした。
北原白秋記念館
生家に隣接する白秋記念館。白秋生誕100年記念に建設された(1985)。
白秋の著書などの遺品が公開されている。
御花
北原白秋生家から歩いて5分の所にある御花。
料亭旅館。もと柳川藩主立花家の別邸で、鹿鳴館風の二階建洋館である。
国境
再び豊前街道に戻る。
ここは湯谷(大牟田市)。
肥後(熊本県)と筑後(福岡県)の国境である。
国境碑
高さ3.7mの国境碑。
従是西北筑後国柳川領、従柳河札辻四里二十町余とある
境界石
古い境界石が向にあり上部が折れている。
文字も不鮮明。江戸末期に前述の国境碑にチェンジしたようだ。
~山川~瀬高へ向かう途中
瀬高~羽犬塚へ向かう途中
~羽犬塚周辺
桝形・山頭火句碑
羽犬塚の法務局の前は、宿場らしく桝形[ますがた]になっている。
すぐ近くの藤島橋の傍には坊津街道(薩摩街道)碑と山頭火句碑が並んでいる。
さろうとして、けふもくれたか山頭火
羽犬塚
羽犬塚とは珍名で一度聞いたら忘れない程だ。
犬の像と説明板(写真右)が街道沿いに建つ。羽根が生えているかのように足の速い犬(豊臣秀吉の愛犬)が敵の矢で死に、この地に塚をたてたとか。
羽犬塚宿御茶屋跡
筑後市羽犬塚小学校(写真左端へ)の敷地が羽犬塚宿御茶屋(本陣)跡。08年NHK大河ドラマで人気の篤姫もここに宿泊し江戸へ輿入れしたようだ。
稚児風流
ここ筑後市水田には、稚児風流という約600年の伝統をもつ祭が毎年10月25日に行われる。
稚児風流
地元ではドイカンカンともいわれる。この祭りの主役は小学生くらいの男児13名である。道風流が11時から始まる。
稚児風流
傘鉾7本(写真左)が道行の行列を先導する。
稚児風流
実りの稲穂の中を行く行列。まさに秋の風物詩だ。
稚児風流
氏子総代の家の前で風流を奉納する。
稚児風流
稚児たちの、いでたちは実にカラフル。
シヤグマ(当世風に言うと茶髪)、きらびやかな陣羽織、鮮やかな緋色のフングミ(袴)、白足袋にわらじ。
稚児風流
水田天満宮(筑後市)に入ってきた。
稚児風流
ハーエンヤーホイ、ヤーホイ(栄えあれの意)の掛声に合わせて風流を奉納する。
稚児風流
太鼓や鼓、鉦など楽器によって年令や人数が決まっているようだ。
以上1987年撮影。
豊前街道歩きコース
コース | ハイライト・見所 | |
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1 | 山鹿市内散策 | 山鹿宿の町並み、山鹿市立博物館、温泉 |
2 | 山鹿口~腹切坂~南関 | 車坂、ハゼ並木、腹切坂 |
3 | 南関~羽犬塚 | 稚児風流(祭り) |
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