下田街道/しもだかいどう(旧下田街道)
下田街道のルート
下田街道のルートは、下田-小鍋峠-湯ヶ野-梨本[なしもと]-天城峠(旧天城トンネル)or 二本杉峠-湯ヶ島-出口-修善寺[しゅぜんじ]-大仁[おおひと]-韮山[にらやま]-三島
現在のR414号、R136号に相当する。
今回の下田街道歩き旅では下田から蓮台寺[れんだいじ]方面のコースをカットして河津へ寄り道をした。河津桜をエンジョイしたあと河津から約5km北西の湯ヶ野に入った。
旧下田街道の歴史
伊豆半島を縦断する街道
下田街道は天然の良港・下田港と東海道の三島宿を結ぶ約60kmの街道である。南伊豆の下田は風待港として、江戸と上方[かみがた](関西の意)・大坂を結ぶ航路の要所として繁栄した。
”伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が軽くなる・・・”と民謡「下田節」にも歌われている。
天城越えの難所で有名な街道(旧天城街道)
古くから天城峠は伊豆の南北を結ぶ交通の要所で、何度か、そのコースを変えている。歴史の道に選定されているのは幕府に利用された3番目の峠、二本杉峠(標高815m)の方である。明治末期に完成した天城トンネル(標高708m)は4番目にあたる。現在は新天城トンネル(標高627m)が利用されている。
日本を突如として世界史の舞台に登場させた歴史の道
それは明治維新の14年前のことだった。ペリーの下田上陸である(1854.4.18)。日米和親条約が締結され、初代駐日総領事タウンゼント・ハリスが下田着任した(1856.夏)。
そのハリスが、通商交渉のため江戸に向ったのが下田街道である。通訳のヒュースケンを伴い、多くの幕吏も同行した。6泊(梨本、湯ヶ島、三島、小田原、藤沢、川崎)7日で江戸に到着。(1957.11.30)。時の将軍・家定(1824~58)に謁見し米大統領ピアス(在任1853~57)の親書を手交。更に、老中・堀田正睦[まさよし](1810~64)とも通商交渉のために謁見した。
ちなみに、ハリスはその後、発病したため、下田街道ではなく海路で下田に戻っている。険路の下田街道は避けたかったであろうか。2度目の江戸行きも海路だった。
吉田松陰が海外雄飛を夢見た下田街道
師・佐久間象山(1811~64)の影響を強く受けた吉田松陰(1830~59)は、外国の先進文明を学ぶため下田で海外渡航を企画。しかし、肝心のペリーの承諾を得られず、やむなく自首した。やがて下田街道を北上し江戸へ護送。その弟子・金子重輔と共に囚人として厳戒態勢での天城越えであった(1854)。しかも前述のハリスとは違い4泊5日の強行軍だった。ただ、この時点の処分は寛大で、郷里・萩の自宅で松下村塾を開いたのも事後のことである。
けれど、のちの安政の大獄により事態は急変する。なお萩から江戸の護送中、吉田松陰が詠んだ歌(碑)などは萩往還※1と山陽道(広島~玖波~徳山)※2を参照されたい。
(※1参照 萩往還コース1 涙松跡、松陰が詠んだ句の碑、 萩往還コース2 松陰の漢詩の石碑
(※2参照 山陽道コース14 苦の坂の峠、関戸宿本陣跡、東遊記念碑、山陽道コース15 松陰訣別の地碑 )
『伊豆の踊り子』で人気の観光ロード
ノーベル文学賞作家の川端康成(1899~1972)は、19才の時に初めて伊豆を旅行している(1918.10末)。この時、川端は偶然に旅芸人の一行と出会い道づれになる。この経験が、『伊豆の踊り子』の素地となり、1926年「文芸時代」に掲載された。
これより以降、川端康成は伊豆をこよなく愛し、ほとんど毎年のように伊豆を訪れたという。「伊豆の踊子」が歩んだ道を追体験するなら「踊子歩道」が最適である。浄連の滝~河津七滝までの約16kmである。更に湯ヶ野まで足を伸ばし、温泉でゆっくりするのも良い。
下田街道歩き旅&アドバイス
旧天城トンネルも二本杉峠も、どちらも一挙に踏破したいなら伊豆山稜線コースという自然歩道がお勧め。所要時間は約60分。また下田街道の所々を部分的に歩きたい場合は、東海バスのフリーパス(2日間1,900円)を利用すると便利。バス停以外でも乗降OK(浄連の滝~椎の木上)である。修善寺から三島までは伊豆箱根鉄道を部分的に利用すると良い。
下田街道歩きコースプラン
下田街道歩きコース
コース | 下田街道歩きのプラン | |
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1 | 下田~湯ヶ野 | 下田市内散策→(伊豆急行)→河津(桜)→5km→湯ヶ野温泉(泊) |
2 | 湯ヶ野~天城越え~湯ヶ島 | 河津七滝→(踊子歩道or二本杉歩道)→浄連の滝→(バス)→湯ヶ島温泉(泊) ※どちらも所要時間5時間20分 |
3 | 湯ヶ島~三島 | 湯ヶ島散策→10km→修善寺散策→韮山史跡巡り→(伊豆箱根鉄道)→ 三島から帰宅 |
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