太閤道/たいこうどう
太閤道のルート
(唐津城下)-(佐志)-(加倉)-(石室)-(野元)-(名護屋[なごや]城)
総距離14~15kmが文化庁により「歴史の道」に選定されている。
太閤道の別名
名護屋道
太閤道の歴史
大陸制覇を夢見た豊臣秀吉の野望
武力を背景に奥羽から九州までの日本列島を征服した秀吉は、次に海外へ目を向けた。実子鶴丸の死去(1591.8月)の直後、突然諸大名に朝鮮出兵を命じたのである。このため九州諸大名を動員して名護屋城の普請を開始した(同年10月)。
名護屋城建設のための軍用道路
それは5ヶ月の突貫工事で完成した。毎日、数万人の人夫が昼夜兼行で働いた結果である。とにかく大坂城に匹敵する巨大城郭が誕生し、唐津郊外の一寒村が国内有数の城下町、巨大都市に変貌を遂げた。
秀吉の着陣と名護屋滞在
秀吉は二度、この道を往復している。京都から山陽道を通り、1ヶ月かかり着陣(1592.4月)したが夏に母の死で戻り、秋には淀君を伴って再び着陣した。翌年夏、秀頼の誕生で大坂に戻った。なんだかんだで秀吉の名護屋城滞在は1年2ヶ月と短いのである。
今回の歩き旅
バス停の加倉から太閤道を歩く予定だったが、これと言った案内板もなく思いがけず苦戦を強いられた。最後に、街道筋ではないが港町呼子(よぶこ)の散策を加えた。
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