三国街道 一日目の街道歩き旅 [長岡~宮内編]
長岡~宮内
道遊の割戸
[参考写真]三国街道は佐渡金山に至る道である。
ここは佐渡金山のシンボル道遊の割戸[どうゆうのわれど]。
金山を試掘した露天掘の後である。
出雲崎
[参考写真]日本海に面する出雲崎(写真手前)から佐渡島までは約45km。晴れた日は島影(写真中央)が見える。佐渡の金は出雲崎に陸揚げされ長岡方面などに運ばれた。
長岡城本丸
スタートは長岡駅前(大手口)から。かつて長岡城本丸があったところである。
町の真ん中にあった平城で戦争には全く不適だった。
元旦年賀登城の図
大手口の地下道には元旦年賀登城の図が飾られている。このような光景を思い浮かべながら散策してみよう。
河井継之助記念館
長岡藩家老河井継之助(1827~68)の邸宅跡に河井継之助記念館がある。福島県只見町塩沢にも同名の記念館がある。
河井継之助
河井はラストサムライというか、武士道に生きた越後の英雄である。毀誉褒貶[きよほうへん]があるのも事実である。
河井継之助邸跡碑
河井は30才の時、父の隠居にともない家督を継ぐ。屋敷の広さは400坪ほどあったとされる。向学心に燃え32才の時に西国遊歴の旅に出た。
河井継之助記念館
記念館の裏手にはミニパークになっていて、河井継之助に関する説明板がずらりと並んでいる。
会津藩叶津番所跡
[参考写真]会津藩叶津[かのうづ]番所跡。
長岡で負傷した河井が敗走した八十里越の終点にあたる。ここで一泊した河井は若松に向かうが傷が悪化して会津塩沢で死去(享年41才)。
山本五十六記念館
こちらは山本五十六記念館。長岡藩士の家に生まれ32才で断絶していた山本家(旧家老職の名家)を継ぐ、のち海軍大将、連合艦隊司令長官となる。
山本記念公園
記念館の南には山本記念公園があり、山本五十六[いそろく](1884~1943)の像(写真中央)が建つ。山本は河井継之助を敬愛していた。
山本記念公園
河井と山本には興味深い共通点がある。それは両者とも戦争の回避を訴えたこと。そして好まぬ戦争に巻き込まれ悲劇的な死を遂げる。勿論、二人とも長岡の出身だ。
米百俵の碑
山本記念公園から更に200mほど南に進むと大手通に出る。その交差点脇には「米百俵の碑」が建つ。
戊辰戦争直後、米百俵を売却して(今の3000万円前後か?)国漢学校を開講したことに由来する。これは長岡の教育の礎であり誇りになっている。
長岡城二の丸跡碑
長岡駅のすぐ西に長岡城二の丸跡の碑が建つ。
戊辰北越戦争(1868)で焼失するまで牧野家の居城だった。
摂田屋
醸造業の町、摂田屋にやってきた。ユニークな地名だが、中世の無料休憩所接待屋に由来するらしい。
サフラン酒
摂田屋で注目すべきは吉沢商店の美しい土蔵だ。
サフラン酒(写真左の看板)で財をなしたという。この酒はサフランの花を入れた薬用酒。
鏝絵
これは見事だ。美しく鮮やかな鏝絵[こてえ]の前で、しばし立ちすくむ。
鏝絵
十二支などの動物が多く描かれている。素晴らしい土蔵美術。恐らく日本一とお見受けした。
光福寺
前述の土蔵から東へ約400mの所にある光福寺。
戊辰戦争では奥羽列藩同盟軍(いわゆる東軍)の本陣が置かれた。
本陣碑
光福寺の境内には本陣を示す石碑が建つ。恐らく河井継之助はここから供侍1人を連れて小千谷の慈眼寺に乗り込んだのであろう(小千谷会談)。それにしても無謀と言うか大胆不敵な男である。
三国街道歩きのルート
コース | 三国街道の見どころ、ハイライトなど | |
---|---|---|
1 | 長岡~宮内 | 河井継之助記念館、吉沢商店の土蔵 |
2 | 榎峠~湯沢 | 榎峠古戦場パーク、雪国館 |
3 | 三俣~二居 | 中の峠、二居峠 |
4 | 二居~苗場 | 二居宿本陣、山鳥原遊歩道 |
5 | 三国峠越え | 三国峠、大般若塚 |
6 | 永井宿~猿ヶ京 | 永井宿、おがんしょ巡り |
7 | 猿ヶ京~下新田 | 与謝野晶子紀行文学館、須川宿 |
8 | 中山~北牧 | 中山宿、なぎなた坂 |
9 | 渋川~高崎 | 高崎城址公園 |
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