大洲街道/おおずかいどう

梼原街道 概略地図

街道のルート

松山-松前[まさき]-郡中[ぐんちゅう]-上灘[かみなだ]-犬寄[いぬよせ]峠-中山- 内子[うちこ]-新谷[にいや]-大洲

街道の歴史

伊予の城下町を結ぶ街道

松山城の西北端・札の辻を起点として南下。郡中を経て街道随一の難所・犬寄峠を越える。

その昔、松山藩の飛脚が「山犬の群れに襲われたとき、刀の柄に彫った鶏の鳴き声で救われた」という伝説が残る峠である。
峠を越えると中山宿。江戸時代から栗の名産地だった。内子宿は金毘羅参詣、四国遍路の拠点として栄えた町。 このあたりは遍路のルートにあたる。また四国で初の重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に選定(1982年)された。

内子の格別に美しい町並みに年間約60万人の観光客が魅了される。最後は「伊予の小京都」大洲、山紫水明の城下町である。

子規と漱石の親交の地、俳句のメッカを訪ねる旅

松山には天才俳人・正岡子規(1867~1902)を筆頭に河東碧梧桐[へきごとう]、高浜虚子、内藤鳴雪、寒川鼠骨[そこつ]、松根東洋域、中村草田男、石田波郷それに種田山頭火や芭蕉など500基にも及ぶ文学碑があるという。(参照 萩往還 コース3 防府駅前、 長崎街道 コース4 嬉野
まさに松山は俳句王国。文学ファンには、こたえられない旅となる。

また松山は子規と夏目漱石(1867~1916)の親交の地でもある。二人は明治維新の前年、つまり大政奉還の年に生まれた同年齢。接点は東京帝国大学時代。子規は中退し叔父の親友、陸羯南[くがかつなん]が主宰する日本新聞社に入社。
その後、漱石は松山中学で英語教師として勤務。子規が16才で上京するまで通学した学校である。やがて日清戦争(1894~95)の従軍記者だった子規が病気療養のため一時帰省した。この時、二人は兄弟のように共同生活(2ヶ月足らずの同居)して共に俳句に精進した。そういう訳で漱石も松山時代の一年間に900以上の俳句を残している。

やがて子規は東京に戻り、漱石も熊本(第五高等学校)へ赴任する。漱石の松山時代の経験は『坊ちゃん』(1906年刊行)として結実した。

別名

松山街道。現在のR56号に相当する。

今回の歩き旅

「維新の道」との関連で大洲から松山に向けスタートした。1日目は大洲と内子を重点的に、ゆっくりと散策するプランである。2日目はJR伊予市駅から松山を目指し、3日目は松山市内オンリーである。

松山と言えば正岡子規と「坊ちゃん」が余りにも有名。それに松山城、道後温泉。また四国霊場が松山に何故か集中している。見所が多い魅力的な町である。
2009年からは『坂の上の雲』がブームとなって更に松山は注目を浴びるだろう。

梼原街道歩きコースプラン

コース

  コース ハイライト・見所
1 大洲市内散策~内子町内散策 おおず赤煉瓦館・大洲城・内子町の町並み
2 内子~松山 出合橋周辺の句碑、道標
3 松山市内散策 松山城・坂の上の雲ミュージアム・道後温泉