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松山街道/まつやまかいどう

街道のルート

(高知)−(伊野)−(佐川[さかわ])−(越知[おち])−池川{@(用居)−(東川) A(水ノ峠)−(黒滝峠)}(七鳥[ななとり])−(久万[くま])−(東明神)−(三坂峠) −(久谷)−(井門)ー(松山)[札の辻(大洲街道コース3参照)]

別名

土佐街道、土佐道、久万街道、三坂越え、予土往還、予州高山通り、雑誌[ぞうし]越え、黒森越え、殿様街道、殿様道
注)予州は伊(愛媛県)のこと

街道の歴史

脱藩の道

幕末の1864年、浜田辰弥ら土佐勤王党5名が決死の覚悟で脱藩した道である。5人は越知の東端、赤土峠に集合し黒森・土居・瓜生野・上黒岩を経て大洲に至り脱藩に成功した。

なお浜田は脱藩時に田中光顕と改名。新政府では宮内大臣など要職を歴任した。

百姓一揆の道

飢饉に苦しんだ用居・池川の百姓約500人が水ノ峠から松山藩に逃散した道(1787年)。

遍路道と一部、重なる

久万以北松山までは44番〜51番礼所が集中する。また松山街道は四国最高峰石鎚山(1,982m)参拝の道でもあった。

中浜(ジョン)万次郎、帰国の道(1852年)

土佐の漁師・万次郎は嵐で遭難したがアメリカ捕鯨船に救出された。その後、米本国で英語、数学、測量術、航海術等を学び10年ぶりに帰国した。ただ、すんなりと土佐に帰国したわけではない。琉球に上陸したため、初めは薩摩藩、次に長崎奉行に送られた。土佐藩では吉田東洋らの事情聴取を受けたが岩崎弥太郎坂本龍馬など秀れた青年に影響を与えた。なお、明治維新後は開成学校(現、東大)の教授を務めた。

街道ゆかりの文人など

一遍の後継者、遊行上人

松山から高知まで歩いている(1675)

正岡子規(1867~1902)

14歳の頃、松山から友人と三坂峠まで歩き、漢詩「三坂望松山城」を残す。子規は8才で漢詩を作る秀才だった。2年後、松山中を中退し上京した。

種田山頭火 四国88ヶ所巡礼の旅

松山から四国遍路(1938)。街道筋の池川を訪れたときの日記に「野宿、わが手 わが足 われにあたたかく寝る」「山のよろしさ 水のよろしさ 人のよろしさ」と記す。

今回の歩き旅

池川から三坂峠までを重点的に歩き、他に趣のある3つの街(伊野、佐川、砥部[とべ])を散策した。但し砥部は街道筋ではないが、意外に良かった。

池川から久万までの約30kmの間には宿泊地がない。過疎地だから仕方がないが、これが歩き旅には最大のネック。従って古道の雑誌越えは断念した。

アドバイス

池川から高知・愛媛県境を越えるバスはないが、日曜以外だったら「仁淀川町民バス」を利用して瓜生野まで行ける。観光用ではないため本数は少ないので要注意。今回は池川支所前発6:36を利用した。

松山街道歩きコースプラン

コース

  コース ハイライト・見所
1 伊野の散策 土居邸、紙の博物館
2 佐川の散策 酒蔵通り、青源寺
3 池川〜高知・愛媛県境 仁淀川の清流、用居口番所
4 県境〜七鳥 東光寺、十里石
5 美川支所〜大川 御三戸嶽、上黒岩遺跡
6 久万宿の散策 遍路碑、七里石
7 仰西渠〜三坂峠 仰西渠、六里石、三坂峠
8 砥部の散策 陶板の道、砥部焼伝統産業会館

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