太閤道 一日目の街道歩き旅 [加倉~名護屋城編]

加倉~野元

太閤道 加倉~野元の地図 野元公民館

野元公民館

野元公民館(写真左)で左折する(写真中央奥)のが古道だと地元の人が言う。

古道

古道

これが古道の跡(地元の人)とのこと。

野元~名護屋城址

太閤道 野元~名護屋城址の地図唐津呼子線

唐津呼子線

県道(唐津呼子線)沿いに北上する。

唐津呼子線

唐津呼子線

この県道は、古道沿いに造られたようだ。

名護屋中学校

名護屋中学校

この名護屋中の西側を古道は通っているのだが・・・。

道中

道中

果してこの道が太閤道なのか確信することができない。

道中

道中

それらしき道ではあるが、指標もなく尋ねる人とていない。

道中

道中

とにかく北上する。

案内板

案内板

城跡に近づくと案内板が建つ。

太閤道

太閤道

これは、どうやら太閤道のようだ。

金助・吾助の墓

金助・吾助の墓

江戸時代、農民の窮乏を救うため藩主に直訴して処刑された金助・吾助の墓。

ここが太閤道の終点だ。

名護屋城大手口

名護屋城大手口

ここが名護屋城の大手口。

つまり城の正面入口である。

名護屋城址

名護屋城址

城は5ヶ月の突貫工事で完成した(1592)。

毎日数万人の人夫が昼夜の区別なく働いたという。

名護屋城址

名護屋城址

標高は約90mだが、眺望はすこぶる良い。ブラボー!

加部島

加部島

前方の島は加部島。豊臣秀吉が、この島を指し「我が陣営は壁のごとし」と言ったことが島名の由来とか。

天守台跡

天守台跡

ここ天守台跡に5層7階の壮麗な天守閣が建っていた。秀吉は徳川家康、前田利家などを相手に連日のように茶会を催していたようだ。

青木月斗の句碑

青木月斗の句碑

傍には俳人青木月斗(1879~1949)の句碑が建つ。1933年にここを訪れた。「太閤が睨みし海の霞かな」。

名護屋城博物館

名護屋城博物館

城跡の南側に建つ名護屋城博物館。朝鮮半島との友好交流をテーマに1933年開館した。

前田利家、小西行長陣屋跡付近

前田利家・小西行長陣屋跡付近

城の周辺には、全国の諸大名が約130もの陣屋を築いた。ここは前田利家、小西行長陣屋跡付近。

名護屋城大手口

名護屋城大手口

ここが名護屋城の大手口。

つまり城の正面入口である。

名護屋城址

名護屋城址

城は5ヶ月の突貫工事で完成した(1592)。

毎日数万人の人夫が昼夜の区別なく働いたという。

名護屋城址

名護屋城址

標高は約90mだが、眺望はすこぶる良い。ブラボー!

加部島

加部島

前方の島は加部島。豊臣秀吉が、この島を指し「我が陣営は壁のごとし」と言ったことが島名の由来とか。

天守台跡

天守台跡

ここ天守台跡に5層7階の壮麗な天守閣が建っていた。秀吉は徳川家康、前田利家などを相手に連日のように茶会を催していたようだ。

青木月斗の句碑

青木月斗の句碑

傍には俳人青木月斗(1879~1949)の句碑が建つ。1933年にここを訪れた。「太閤が睨みし海の霞かな」。

名護屋城博物館

名護屋城博物館

城跡の南側に建つ名護屋城博物館。朝鮮半島との友好交流をテーマに1933年開館した。

前田利家、小西行長陣屋跡付近

前田利家・小西行長陣屋跡付近

城の周辺には、全国の諸大名が約130もの陣屋を築いた。ここは前田利家、小西行長陣屋跡付近。

太閤道歩きコースプラン

コース

  コース 見どころ、ハイライトなど
1 加倉~名護屋城 名護屋城跡
2 呼子の散策 呼子の朝市