豊前街道/ぶぜんかいどう

豊前街道 概略地図

街道のルート

(熊本)―(山鹿[やまが])―(南関[なんかん])―(山川)―(瀬高)―(羽犬塚[はいぬづか])―(久留米[くるめ])―(田代)=長崎街道に合流。

別名

薩摩街道、坊津海道、太閤道、小倉筋。
厳密にいえば薩摩街道の北方部分であるが、肥後藩では江戸方面は豊前(小倉)へ通じるので、豊前街道と呼んだ。熊本~鹿児島への薩摩街道は今後の「歩き旅」に登場予定。

古代~鎌倉時代

七道の一つ、西海道[さいかいどう]のルートにほぼ一致する。

九州の中心、太宰府から久留米市の御井[みい]駅、筑後市の葛野[かつらの]駅=羽犬塚宿、旧山川町の狩道[かりじ]駅、南関町の大水[おおつむ]駅までのルートがそれである。また平安末期の壇の浦の戦い(1185)で敗北した平家の落人が、この街道を南下し、これを追討する源氏軍が通過した。

豊臣秀吉の九州遠征(1587)のルート

秀吉の大軍が薩摩の島津氏を征伐するため利用した。

往路は南関から高瀬経由で熊本に入り南下。
復路は熊本から山鹿経由で南関に入り北上し箱崎に向かっている。このため街道は整備され太閤道とも称された。

参勤交代路

宇土支藩(細川氏)、八代(松井氏)、薩摩(島津氏、西郷隆盛もお伴した)、人吉(相良氏)などの各藩が参勤交代に利用した。

西南戦争(1877)の史跡が散在する街道

政府軍は、この街道を通り熊本を目指した。小倉から乃木希典[のぎまれすけ](1894~1912 のち陸軍大将)も幾度となく往来した道である。

一方、薩軍は街道筋の要所・山鹿口で4番大隊長の桐野利秋(1837~77 西郷隆盛の信頼厚く薩軍の実質的指導者)が指揮を執っていた。山鹿口は、田原坂[たばるざか]と並ぶ激戦地だった。

北原白秋(1885~1942)幼少のころの思い出の道

出身地は柳川[やながわ](旧名:柳河)であるが、街道筋の南関(母の実家)で誕生した。柳川から5里、母の里は懐かしく思い出多い所で、幼少のころは、たびたび通った。

豊前街道歩きコースプラン

アドバイス

一日目は、山鹿市内をゆっくり散策したい。山鹿市立博物館(月曜休館)の周辺も見どころが多い。

宿泊に関しては、山鹿は温泉地でまた申し分ないが、南関町はホテルが一軒のみ。柳川は時間に余裕があれば立ち寄りたい。また筑後市の稚児風流は秋を彩る伝統の祭。華麗な姿の少年たちは実にかわいい。一見に値する祭である。

コース

  コース ハイライト・見所
1 山鹿市内散策 山鹿宿の町並み、山鹿市立博物館、温泉
2 山鹿口~腹切坂~南関 車坂、ハゼ並木、腹切坂
3 南関~羽犬塚 稚児風流(祭り)