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吉野山参詣道/よしのやまさんけいみち

吉野山参詣道のルート

(吉野神社) ― (攻ヶ辻) ― (黒門) ― (蔵王堂(金峯山寺)) ― (吉水神社) ― (竹林院) ― (吉野水分神社) ― (高城山展望台) ― (金峯神社)ー(西行庵)

吉野山

紀伊山地の北端に位置し、吉野熊野国立公園の北端部をなす。

古代からひらけた山岳信仰・修験道の聖地

修験道は7c.に大和の呪術者役小角[えんのおづぬ](役行者[えんのぎょうじゃ])が難行苦行の末、開いたとされる。中世特に盛んとなり山伏たちは大峰山(山上ヶ岳[さんじょうがだけ])を目指して歩き、更に熊野三山へと至った。吉野山はこうした修験の道の入口に当たるのである。

その隠れ里的・要害的地形が起伏に富んだ歴史ドラマを生む

@ 壬申の乱

大海人皇子(のち天武天皇)は大津京から飛鳥を経て山越えに吉野へ急行し身を隠した。そして翌年(672)、吉野で挙兵し勝利する。

A 源義経の悲劇

兄・頼朝と不和になり追い詰められた義経は静御前らと吉野に身を隠す。歌舞伎「義経千本桜」の道行の舞台である。

B 南北朝の動乱

後醍醐天皇は足利尊氏と対立し京都を脱出。吉野に遷幸(1336)するも南朝側不振の中に3年後病没。楠木正行[くすのきまさつら]は大坂四条畷[なわて]の戦(1347)に吉野から出陣。その辞世の句が如意輪寺に残る。

古くから桜の一大名所で日本一の名声を誇る

桜の木は修験道の蔵王権現の神木とする信仰があり神聖視された。故に多くの信者により献木されたのである。4月の1ヶ月間は全山花景色。吉野山のどこかで桜を賞でることができる。観桜期には30〜40万の人々が吉野を訪れる。

@ 西行(もと北面の武士・佐藤義清[のりきよ])が陶酔した吉野の桜

22才の若さで謎の出家。はたして高貴な女性との失恋の為であろうか。動機はとにかく、その後の50年は歌道修行の旅の連続であった。とりわけ吉野山の桜への憧れと執着は強かった。

A 太閤豊臣秀吉の盛大な花見の会(1594)

文禄の役の2年後のことである。これには悲劇の関白豊臣秀次や多くの武将(徳川家康前田利家ら)など5,000人が同伴し大坂城を出発。吉野に到着するも3日間の長雨にうんざり。そこで修験道の僧徒に祈祷させたら全山満開。秀吉は子供のように喜んだという。

数多くの文人墨客に親しまれた吉野山

古くは平安時代後期藤原道長が金峯山への参詣の旅を行った(1007年)。のち摂政となる権力者である。京の都を出発し、巨椋池から木津川を遡り奈良の大安寺をへて中街道(下ツ道)を南下。更に橿原、壺阪峠を越え大淀古道を通り吉野山に入った。これ以後、皇族・貴族らの参詣が盛んとなる。

ほかには連歌師の宗祇(1466)、俳聖松尾芭蕉(1684,1688の2回)、文人画家与謝蕪村(1782)、小林一茶頼山陽良寛など枚挙にいとまがない。注目すべきは国学者本居宣長(1730〜1801)だ。3度も吉野山を訪れている。理由はコースAで後述する。最初は12才の時に付き人と「お礼参り」(本来、同伴すべき実父は2年前に他界)。2度目は功なり名を遂げた42才の時。友人や弟子たちとあこがれの地への花見である(前回は夏)。「菅笠日記」(1772)は、この旅行記である。最後は69歳の時、公用で和歌山へ出張した後、松阪への帰途、参詣している。

吉野山参詣道歩き旅アドバイス

この参詣道は高野参詣道(参照されたい)や熊野古道と共に、日本で初めて世界遺産に登録(2004年)されたケースである。是非とも奥千本や西行庵まではじっくり歩きたいものだ。

効率よく回るにはシャトルバスやケーブルバスを利用するとよい。観光客が多すぎる観桜期でなく紅葉の秋もお勧めである。

今回の歩き旅

西行庵までの回遊のほか、吉野宮滝万葉コースを特別に加えた。稚児松地蔵から宮滝バス停(奈良交通まで)の細い山道4km余は趣のある静寂の道。いわば吉野山の穴場的コース。大和上市駅へはバス約15分。便数が少ないので要注意。宮滝に若干、旅館はある。

吉野山参詣道歩きコースプラン

コース

  コース ハイライト・見所
1 桜橋〜蔵王堂(金峯山寺)〜吉水神社 蔵王堂、吉水神社
2 中千本〜吉野水分神社〜高城山 吉野水分神社
3 金峯神社〜西行庵〜宮滝万葉コース 金峯神社、西行庵、象の小川、宮滝

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