和歌山街道/わかやまかいどう

和歌山街道のルート

(和歌山街道) → (八軒屋) ― (岩出) ― (粉河[こかわ]) ― (笠田) ― (高野口) ― (橋本) ― (真土山[まつちやま]) ― (五篠)ー(六田)ー(竜門)ー(三茶屋)ー(鷲家[わしか])ー(高見峠)ー(波瀬) ― (七日市) ― (宮ノ前)ー(粥見) → {1 (大石)→(松阪)…[参宮街道]=(小俣[おばた])} {2 [和歌山別街道(丹生[にゅう])ー(相可)ー(田丸)]}→ (山田) → (内宮)

和歌山街道の別名

大和街道、奈良街道、伊勢街道、伊勢南街道、高見越伊勢街道、紀州街道

和歌山街道の歴史

古代の南海道ルートの一部にあたる

南海道は五畿七道の一つで、都から紀伊、淡路島を経て四国へ通じていた古代の幹線道路。歴代の天皇が牟婁[むろ]の湯(「万葉集」などにも記された温泉で現在の白浜温泉)や歌枕の景勝地・和歌浦へ向かう御幸ルートであった。7C.の斉明天皇や8C.の称徳天皇などが、通ったようだ。街道筋の真土山、飛び越え石などに万葉集が残されている。なお、かつらぎ町萩原は南海道宿駅だった。

紀州の殿様の参勤交代路

紀伊55万石の初代藩主・徳川頼宣(家康の10男)が和歌山本城と東の飛び地である松阪(城)、白子、田丸の領地を結ぶため紀州藩の藩道として整備(1619)。以来、この街道は急速に発展し藩主の参勤交代路となる(1635)。江戸への最短路であった。宿泊地は一泊目、橋本。2泊目越部(大淀町)。3泊目は鷲家(東吉野村)の順である。
御三家の一つ(紀州藩)ともなると1,000人を超える大行列だった。

本居宣長が講義のために3度通った道

松阪出身の国学者・本居宣長[もとおりのりなが](1730~1801)は学問振興のために努めた藩主・徳川治宝[はるとみ]に招聘され1794、1799、1800年の3度、和歌山城に赴いた。
最初の御前講義の時は宣長64才。松阪からの遠路を約164km、これを3泊(七日市、鷲家、橋本)4日で和歌山に着いた。4日目の橋本からは紀ノ川を船で下ったが、他の日は1日に約40km歩いている。当時としては高齢だが、その健脚ぶりに我々現代人は脱帽である。高見峠には宣長の歌碑が建つ。

信仰の道

伊勢神宮のみならず熊野詣、吉野・大峰山(山上ヶ岳)参りの道。また那智山青岸渡寺を出発点とする西国33ヵ所遍路の巡礼道でもあった。第2番が紀三井寺、そして第3番が、ほぼ街道沿いにある粉河寺だから、巡礼は紀ノ川沿いに上流へと向かうことになる。粉河寺のあと巡礼は通常、高野山へ参り、その後大和方面へ向かった。実際、街道沿いの道標を見ると、よく「いせ」「かうや」(高野)の文字を目にする。

紀伊半島を東西に横断する街道、紀ノ川沿いの街道

「紀ノ川」は「紀伊国第一の川」の意で「紀州の母なる川」。約135kmのこの大河は奈良・和歌山県境の大台ヶ原や吉野山地に源を発し上流では吉野川と呼ばれる。そして西流して紀伊水道に注ぐ。現在、R24号とJR和歌山線が街道とほぼ並行して走っている。更に補足すると紀ノ川は日本で最大規模の断層中央構造線(関東~九州まで約1,000km続く)に沿って西流する。和歌山街道の難所、高見峠もほぼ中央構造線上の鞍部にあたる。

和歌山街道歩き旅アドバイス

松阪~飯高は三重交通バス、それ以西の波瀬方面はコミュニティバスが通じている。但し本数は少ないので要注意。榛原~高見登山口は奈良交通バスが運行している(但し1~2月の土曜休日のみ)。JR名松線も2009年秋の台風以降、家城からは代行バスが運行している。奈良・三重県境周辺に宿泊所が少ない所も難点である。

今回の歩き旅

山あり峠あり、川あり海あり、城あり「歴史の道」ありという今回は非常にバラエティに富んだ歩き旅である。最後に和歌山街道と並走して伊勢を目指す街道として伊勢本街道を特別に加えた。この道は古来より大和と伊勢を結ぶ最短路である。それに文化庁の「歴史の道」に選定された魅力的な道だ。今回はハイライト編として紹介する程度にとどめた。

和歌山街道歩きコースプラン

コース

  コース ハイライト・見所
1 和歌山~岩出 和歌山城、四箇郷一里塚
2 岩出~橋本 名手宿、東家の町並み
3 橋本~五篠 万葉の道、五篠の町並み
4 六田~鷲家 大和上市の町並み、鷲家の本陣跡
5 杉谷~高見峠~七日市 高見峠、大定峠
6 赤桶~粥見~丹生 珍布[めずらし]峠、丹生大師
7 相可~田丸~小俣 相可の町並み、田丸城跡
8 河崎~伊勢神宮~二見浦 河崎の町並み、おかげ横丁
9 松阪の散策 鈴屋、御城番通り
10 [伊勢本街道ハイライト編]
榛原~多気~津留
石割峠、鞍取峠、飼坂峠