朝鮮人街道/ちょうせんじんかいどう

朝鮮人街道とは、滋賀県野洲市行畑で中山道分かれて琵琶湖の湖岸を通り、彦根市にあった鳥居本宿で再び中山道に戻る街道。将軍が上洛する時や、朝鮮からの外交使節が通行する時に使われた。このため朝鮮人街道と呼ばれるようになった。朝鮮人街道のような街道名は他に類例を見ない。通常、街道名は地名・地域名が多く、他に「塩の道」「絹の道」の如く特産名を冠する。上洛街道、御所街道、唐人街道、安土街道、京街道、浜街道、下街道、彦根道、八幡道、朝鮮人道とも呼ばれた。

朝鮮人街道のルート

朝鮮人街道のルート

朝鮮人街道のルートは、<中山道>(野洲市行畑)(永原)(江頭)(近江八幡)(安土)(南須田)(伊庭[いば])(山崎)(日夏)(佐和山)(鳥居本)<中山道>の全長11里。約43km。

朝鮮人街道の歴史

織田信長が往来した街道

天下布武をめざす信長は室町幕府を滅ぼした後、近江の安土に城を築く。

この際、琵琶湖沿いの生活道路を整備し京へ上る街道とした。安土は京都へ約45kmと近く、絶好の位置にあった。琵琶湖上をたどれば陸路より数倍早かった。1579年に完成した安土城は極彩色の巨大天守(約45m)を備え、見る人を圧倒したという。しかし、残念ながら3年後に焼失、一夜のうちに落城した。

徳川家康上洛の道

関ヶ原の戦(1600)に勝利した徳川家康が意気揚々と京へ上がった時に通った吉例の道である。敵将・石田三成の佐和山城下を通り、かつての盟友・織田信長に招待された安土城跡を眺めて上洛した。これは、のちに将軍の上洛ルートになった。

日朝友好ロード

李氏朝鮮の国使(朝鮮国王と将軍の間で国書を交換する)、通信使が将軍交代毎に来日し、この街道を通り江戸に至った。プサン(釜山)から江戸まで約2,000km。

大坂までは海路、往復には約6か月を要したという。この朝鮮通信使は1607年から始まり1811年まで約12回にも及んだ。これには莫大な接待費がかかったが、幕府の意図は徳川政権の内外への威信誇示にあった。

朝鮮通信使について

この場合、通信とは情報を知らせる意ではなく「信[よしみ]を通ずる」の意で、つまり親善友好使節団のことである。使節団の一行は約400人。正使・副使のほか、軍人、書記、医者、学者、画家、書家、薬師、曲芸師などで編成されていた。太鼓などを打ち鳴らし、楽器を演奏しながら、曲芸を見せながら華やかに賑やかに、ゆっくりと行進した。

[写真参照]

各地で、おびただしい数の見物人が熱狂したという。当時は朝鮮の方が文化先進国だった。日本各地で文化交流・交歓がおこなわれた(筆談のやりとりで意志は通じた)。なお、1990年来日したノテウ(盧泰愚)大統領は朝鮮通信使に言及し脚光を浴びた。

津まつりの唐人行列

朝鮮通信使を彷彿させる津まつりの唐人行列。使節は笛、太鼓、チャルメラを吹き銅鑼[どら]を打ち鳴らしてやって来たという。

津まつりの唐人行列

派手な衣装とユーモラスというか不思議な面をつけている。津まつりは毎年10月の体育の日にある。[1989年撮影]

唐人踊り

こちらは、鈴鹿市東玉垣町に伝わる唐人踊り。

やはり派手な衣装に面をつけている。

唐人踊り

この祭事は4月第1日曜に行われる。

[1996年撮影]

江戸幕府の方針

諸大名の参勤交代やカピタン(長崎街道を参照)には、この街道の利用を禁じ、この街道の権威を保持した。つまり、通信使一行は唯一の例外として、この朝鮮人街道を通行したのである。

朝鮮人街道歩き旅アドバイス

平坦な道ではあるが、やや無味乾燥な車道歩きとなる。かつての街道の面影はほとんど見られない。しかし、近江八幡、安土、彦根の3点セットは街歩きが十分堪能できるところだ。

宗祇[そうぎ](1421~1501)のふるさと伊庭の祭も必見。5月のGW中におこなわれる。

朝鮮人街道歩きコースプラン

朝鮮人街道歩きのルート

  コース ハイライト・見所
朝鮮人街道
1 野洲~仁保~近江八幡 近江八幡
2 安土の散策 安土城跡、考古博物館など
3 能登川の散策 伊庭の祭
4 彦根~鳥居本 彦根城