|
山陽道 十三日目の街道歩き旅 【広島〜玖波編】
広島駅〜新井口駅まで
道中の風景
山陽道は、広島駅を越え猿猴橋を目指す。
猿猴橋
JR広島駅の南300mにある猿猴【えんこう】橋。
戦前の面影をとどめる名橋の一つです。
元安橋
平和公園を進み元安橋にさしかかる。原爆ドームや原爆資料館など興味深い建物が多い。
旧大正屋呉服店【写真左】が見える。
天満宮
天満宮の赤い鳥居の傍に石柱【写真中央】があり、
「ここは旧山陽道」。
ここから700m西進すると己斐【こい】(西広島の旧名)橋東詰めに着く。
己斐橋
己斐【こい】橋で太田川をわたる。
西広島はもうそこである。
置鳳輦止處
説明によると、明治18年に明治天皇行幸の休息所に利用されたことの記念碑。
「鳳輦を置き止どめるところ」と読む。
小泉酒造
厳島神社のお神酒も製造している老舗とか。
草津の町並み
広島市西部にある草津の町並み。立派な説明板【写真中央】もある。実はここに来るまで、群馬県と滋賀県の草津しか知らなかった。
新井口駅周辺〜宮内串戸駅周辺まで
街道松
説明板によれば一号松の樹高8m、 幹周3,1m。
なかなかのものである。
佐方一里塚跡
新しく、きれいな一里塚。
「西国街道壹里塚跡」と刻まれている。
街道松
桜尾公園傍の街道松。案内板によると、元々は68本の松並木であったが、現在はこの1本のみとか。
道中の風景
写真左に「明治天皇御駐蹕遺跡」と刻まれた碑【写真左】が建つ。
廿日市本陣周辺
廿日市【はつかいち】宿の本陣付近の町並み。天満宮【写真中央】の向いである。本陣跡碑【写真右下】には「芸州廿日市御本陣旧趾」と刻まれている。
廿日市本陣跡碑
本陣は寛永期に設けられ、中世より鋳物師として活躍した山田家によって代々経営されたが、慶応2年(1866)の長州の役で焼失し、その後再建はならなかった。
宮内串戸駅周辺〜大野浦駅まで
一里塚跡碑
廿日市【はつかいち】市宮内砂原。専念寺の前に一里塚跡碑がある。やはりこれもライオンズクラブのご尽力の賜。
襄ヶ嶽遺跡案内板
襄ヶ嶽【じょうがたけ】遺跡の案内板が建つ。高見側西側の襄ヶ嶽から弥生式土器の破片がたくさん出土したとある。
高庭馬家跡
高庭馬家【たかばのうまや】跡・濃唹【のう】駅家跡がある。
古代、馬の乗り継ぎと宿泊のために設けられた施設のこと。
万葉歌碑
高庭馬家【たかばのうまや】跡の万葉歌碑。この地で病死した若者を悼んで山上憶良【やまのうえのおくら】が歌を詠んだもの。
出で行きし 日を数えつつ
今日今日と 吾を待たすらむ父母らはも
案内板
歴史の散歩道とかかれた案内板。
道中各所にで見ることができる。
道標
大野小学校の交差点に建つ道標。
「右宮島広島道」
「左宮内妹背瀧道」
大浦駅周辺〜玖波駅まで
大野町の石畳
一見何でもないような道路に見えるが、実は石畳道を保存するため仮舗装してある(大野町向原)
古代山陽道の史跡
「古代山陽道の史跡」と書かれた案内板がある。
今川貞世の歌碑
今川貞世の詠んだ歌の碑がある。
波の上に 藻塩焼くかと
見えつるは あまの小舟に
たく火なりけり
四十八坂
第二次長州千層(1866で幕府軍が大敗した古戦場です。
石畳の道
向原の石畳。
当時の雰囲気が漂る。
道中の風景
残念社
慶応2年(1866)、和睦のため軍使として長州陣営に向う途中、長州軍の遊撃隊に誤って狙撃された。「残念」と言い残し死んでいった丹後宮津藩士依田伴蔵を悼み、地元の人々が祀ったのがこの残念社とか。
吉田松陰腰掛の岩
吉田松陰が江戸へ護送されたとき、ここを通ったといわれる。
三県一望の地として、山口・島根・広島の3県が見渡せたという。
案内板
所々に設置してある。
現在地が確認しやすく、てとても有難い!
道中の風景
四十八坂の古戦場と、残念社を越えると気持ちいい下し坂である。海【写真左】が見えてきた。
道中の風景
案内板で確認しつつ、玖波【くば】をめざす。街道は鉾の峠にさしかかる。
鳴川の石畳
民家の横の細い道を上がっていくと鳴川の石畳がある。向原から玖波【くば】までの古道は「歴史の道」に選定されている。
玖波隧道
玖波トンネル。
馬ためし峠の場所だったとか。目標の玖波【くば】まであとわずか。
|