出雲街道/いずもかいどう

古来出雲街道は都(大和)と出雲を結ぶ官道で、国造が都へのぼったり、国司が中央から赴任する道だった

出雲街道のルート地図

出雲街道 ルート概略地図

出雲街道のルート

(松江)-(米子)-(溝口)-(根雨[ねう])-(坂井原)-(四十曲峠)-(新庄)-(美甘[みかも])-(勝山)-(津山)-(佐用)-(姫路)
全長53里(約212km)

姫路~勝山までの出雲街道は、ほぼJR姫新線[きしんせん]に沿ったルートを通る。

出雲街道ルートガイド

出雲街道のアドバイス

出雲街道は姫路~勝山まではJR姫新線がほぼ並行して走るので利用すると便利。ただ日本百名峠の一つ、四十曲峠越えは歩くしかない。前日、美甘に泊まり根雨(JR根雨駅)まで5里半(約22km)、時間配分に留意されたい。

出雲街道歩きのコース

  ルート区間 出雲街道のハイライト・見所
出雲街道
1 龍野の散策 龍野公園周辺
2 津山宿の散策 鶴山公園(城跡、桜)
3 勝山宿の散策 辻本店の酒蔵、のれん
4 美甘宿~新庄宿 新庄の凱旋桜通り
5 四十曲峠越え 杉並木、後鳥羽公園
6 坂井原宿~根雨宿 根雨宿、溝口宿
7 大山道(横手道) 大山寺、大神山神社(参道)

今回の出雲街道歩き旅のルート

出雲街道筋ではないが、最初に龍野へ寄り道をした。姫路周辺では、ここは、はずせない所。

出雲街道ルートの中でも美甘から根雨までを重点的に歩き、最後に歴史の道 大山道を特別に追加した。

出雲街道の別名

出雲街道は出雲みち、出雲往来、雲州街道、雲州海道、雲州往来、雲伯往来、伯耆[ほうき]みち、津山街道、上方往来、上方街道、上方みちなどとも呼ばれていた。

出雲街道とは 出雲街道の歴史

古代

都(大和)と出雲を結ぶ官道で、国造[くにのみやつこ]が都へのぼったり、国司が中央から赴任する道だった。

陰陽連絡の道

中国山地を縦断し山陰(道)と山陽(道)を連絡する。

二帝配流の悲しい道

後鳥羽上皇(1180~1239)、後醍醐天皇(1288~1339)とともに倒幕に失敗され隠岐島へ配流となる。
優れた歌人である後鳥羽上皇の歌碑が道中、新庄村の山道に建つ。
時は流れて約110年後、後醍醐天皇も同じ道を通り隠岐へ流された。しかし、1年後には脱出され建武の新政(1334)が成立する。

出雲街道は参勤交代の道

松江、広瀬、勝山、津山、の各藩主が参勤交代道として利用した。ちなみに松江藩主の1泊目は溝口、2新庄3津山4佐用5姫路で江戸到着は23日目だった。

出雲の阿国[おくに]やラフカディオ=ハーンも通った道

阿国は出雲大社の巫女又は遊女といわれ、上洛(1603)して歌舞伎踊を上演した。女歌舞伎の創始者とされる。

ハーン(1805~1904)は特派記者として来日したギリシア系英国人だが、帰化して小泉八雲として有名。松江中学(現、松江北高)の英語教師として赴任した時の道が出雲街道である。意外に松江での生活は短く(1年3ヵ月)その後、熊本(五高)・神戸・東京(東大・早大)などに転住した。

出雲街道の意義

出雲街道は信仰の道

出雲には出雲大社、美保神社があり、そこへ参詣するのが西参り。東参りは伊勢参宮、熊野など、遠くは長野の善光寺参りをいう。出雲の人たちは山陰道を好まず、中国山地を南下して、ひとまずは山陽道に出るルートを取る人が多かった。

出雲街道は物流の道、鉄の道(たたらの道)

山陰地方には良質の砂鉄がとれ、砂鉄から鉄をつくるたたら製鉄が盛んだった。
出雲街道は、砂鉄や鉄製品は山陽方面へ運ぶルートであった。綿や木綿、朝鮮人参、木蝋燭などの産物も往来した。また、境に陸揚げした水産物、宍道湖のウナギなども出雲街道を通って阪神方面に運ばれた。